« 此の世の苦 | トップページ | ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団 »

2012年2月29日 (水)

杢太郎さん

  石牟礼道子さんが「苦海浄土」の第4章「天の魚」の〝九竜権現さま〟で書いた江津野杢太郎少年の祖父の言葉として表した箇所を引いておく。石牟礼さんは、現在も存命の彼を病院に見舞った時に新版の文庫本を進呈した。

 わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなかが、、わが命惜しむわけじゃなかが、杢がためにゃ生きとろうごてござす。いんね、でくればあねさん、罪かぶった話じゃあるが、じじばばより先に、杢の方に、はようお迎えの来てくれらしたほうが、ありがたかことでございます。寿命ちゅうもんは、はじめから持って生まれるそうげなばってん、この子ば葬ってから、ひとつの穴に、わしどもが後から入って、抱いてやろうごだるとばい。そげんじゃろうがな、あねさん。(同書p207)

 昭和30年生まれの杢少年は現在56歳になっている。身体は中高年の肉体に成長している。表情と眼からは石牟礼さんの言葉と意思がすべて伝わっているとも思われない。しかし、パーキンソン病にお罹りと聞く石牟礼さんが、かつて「少年とわたくしの心は充分通いあっていた」(同書p215)と書いた男に、首をふりふり語りかける姿は、人の心の通いあいの不可思議と困難にも突きあたる。杢少年は祖父母が亡くなっても、しぶとく或る意味で逞しく生きていたことを喜ぶべきか憐れむべきか。恐らく、そのような二者択一的見方では把握できない次元と領域で杢氏は生きている、とアカショウビンには思われた。それは他者などには理解できる筈がない。恐らく、此の世を生きる、とはそういうことだ、と思い知る。他者から見れば「痛苦」と見えても、本人には果たしてそうであるのか?それは恐らく、日常として現在の空間と時間、強いて言えば実存を呼吸しているのだ。何が痛苦だ、苦だ、オレはオレの生を生きているだけだ、と杢さんは言いたいように、アカショウビンには思えた。それさえも杢さんからすれば笑止であろう。 

 石牟礼さんは今や中年になった自分の意思を言葉にできない息子のような男に首をふりふり自著を朗読し語りかける。此の世とは時に不可思議な時空を生み出す。石牟礼さんは、かつての少年の、じじばばの立場で中年になった少年に、自分の言葉の意味が伝わっているかどうかわからぬ、言葉と語りで男の記憶と精神の襞とでもいう心身に言霊とでもいうものを吹き込もうと話す。杢さんの表情は不思議に、それは錯覚かもしれないが、受け入れられたようにも見えた。石牟礼さんは、かつての少年に、祖父が残した言葉を巫女のようにではなく、一人の老婆として人間の言葉で伝えようともがいているようだった。

|

« 此の世の苦 | トップページ | ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/54103528

この記事へのトラックバック一覧です: 杢太郎さん:

« 此の世の苦 | トップページ | ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団 »