« 憤怒と痛憤 | トップページ | アンダンテ・クアジ・アレグレット »

2011年12月 3日 (土)

此の世の痛苦

 石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読んだのは40年近くも前だ。新聞や雑誌で公害問題も頻出していた。九段会館で水俣を撮影した映画上映会があるというので出かけた。その映像は断片的にしか思い出せない。しかし、それは己と無関係な現実ではないと痛感した。カンパをし薄い写真集を買った。坂本しのぶさんや、石牟礼さんの文章も載っている写真集は手元にある。昨年、石牟礼さんと詩人の伊藤比呂美さんの対談新書を読んだ時に何十年ぶりかで写真集を読み返し見返した。それは驚愕し痛憤する現実を切り取っていた。そこにはないが、母親が水銀中毒で眼があらぬ方向を向いている娘を抱いて風呂に入れている写真か映像が今も記憶の彼方に明滅する。それは人が生きることの究極の映像とも言える。母と娘の顔は此の世の現実の一つの光景を闇と光の中に浮かび上らせていた。それは当時から現在まで多くのマスメディアが伝える幸せな親子像などではなく、此の世の苛酷、敢えて言えば地獄と極楽を切り取っていた。母親の表情を忖度するに、それは苛酷でも地獄でもなく<現在>を母と子が生きている極楽の如き姿とも今は思える。娘は障害を負っても生きている。その娘を抱ける母は己が生んだ娘への罪と責任をすべて受け入れた悟りの表情とさえ思い出されるからだ。

 石牟礼さんの作品と共に、ユージン・スミス氏の写真集で視た幾つかの写真は無言で水俣の現実を痛烈に告発していた。若い頃の驚愕は後を引く。熊本に棲む渡辺京二氏が石牟礼さんらと「水俣問題」と関わり続けてきた経緯はかなり後で知った。先のブログで引用させて頂いた箇所の痛烈さは日々の労働に消耗しているアカショウビンの心身に痛棒を喰らわせた。人が現実を生きることは、かようにも苛酷で憤怒が我が身を突き上げることなのだ。

 石牟礼さんが詩人の伊藤比呂美さんと対談した遣り取りの中から引用させて頂き石牟礼道子という人の真骨頂を管見させて頂く。

 石牟礼 人間というのは願う存在だなと思いますね。

 伊藤  「願う」と「祈る」は違います?

 石牟礼 似てますね。

 伊藤  「呪う」も、同じでしょう。

 石牟礼 逆に言えば、人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。

 (「死を想う」 平凡社新書 p142)

|

« 憤怒と痛憤 | トップページ | アンダンテ・クアジ・アレグレット »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/53392341

この記事へのトラックバック一覧です: 此の世の痛苦:

« 憤怒と痛憤 | トップページ | アンダンテ・クアジ・アレグレット »