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2011年12月 1日 (木)

憤怒と痛憤

 1971年5月。チッソ大阪事務所の川村所長に浜元フミヨさんが詰め寄ったという言葉を引かせて頂く。石牟礼道子さんによる再現である、と著者は断っているが、それは近代技術による文明社会を生きる便利の裏で犠牲になった人々の生き様の苛酷を抉り伝えている。

 「わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。おらあな、会社ゆきとは違うぞ。自分げで使う会社ゆきと同じ人間がものいいよると思うぞな。千円で働けと云えば千円で、二千円で働けと云えば二千円で働く人間とはちがうぞ。人に使われとる人間とはちがうぞ、漁師は。おるげの海、おるげの田畑に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うか。言葉だけで。いうな!言葉だけば!そらっ、お前の横に座っとるその青年。みてみろ!その青年ばあ。よか青年じゃろが!仏さんのごたる面しとるじゃろが・・・・・雇うかあその青年をば、雇えっ。雇えきるか。片輪ぞ。汝(わる)げの会社に片輪にされた青年ぞ。その青年ばかりじゃなかぞ。もひとりおるぞ。その家にゃ。片輪ぞっ。もひとりも。世間に出てゆくことがならずに家の中におるぞ。もひとりも雇うかあっ。おっかさんもぞ。そらっ。ここに来とらすぞ、おっかさんも。妹もぞ、その妹は、死んだぞおうっ。お気の毒ですむと思うか。お気の毒で。まだおるぞ。そらっ、お前の前の、坂本タカエちゃん。嫁にゆきならずに戻されてきたおなごぞっ。水俣で。子供生まされて。お前が貰うかあっ。お前が、そのおなごば。貰えっ、貰いきるかあっ」。(「民衆という幻像」)  渡辺京二コレクション2 民衆論 所収 (p87~p88)

 注釈はいるまい。この憤怒と痛憤は時を超え現在の、また将来の相馬住民の言葉として相馬弁で吐かれ、吐かれるだろうからだ。

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