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2011年12月24日 (土)

記憶と忘却と回顧

 暮れは休日も出勤しサービス残業で溜まった仕事をこなすのが「下層セールスマン」の仕事の日常である。若い仕事仲間がアカショウビンの仕事を戦後しばらくの頃にそのように称していたとメールで書いてきて苦笑した。しかしそれでもかつかつ年を越せそうなのは幸いである。なぜなら此の年は近しかった人たちの死と震災で亡くなられた多くの痛ましい死、そして原発で亡くなるであろう将来の死者たちへの鎮魂を強く意識させられた年であったからだ。人類史・宇宙史という射程で愚考するなら、それは辺見 庸氏の喩えのように「宇宙のクシャミ」の如きものに右往左往する人類という生物の生態であろうが、一人一人の個体には、それぞれの絶望と自覚が様々に織り成されて現在を生きる契機とも諦めともなっているだろう。アカショウビンも余生の如き生をヨロヨロ、ヘロヘロ、ボロボロで生き延びている。

 この悲惨な事実もいつか忘却の彼方に消え去るのが世の習いというもの。しかし時に記憶と歴史事実は記述された文字により或いは人々の声によって甦る。ここのところ読み終え、読み継いでいる書物、繰り返し観る映画作品、新作には楽しみのいくらかも見い出す。また、友人、知人、同僚たち、電車の車内の会話、テレビ報道、おしゃべりは声の音と意味を介して自覚、痛感する過去の記憶と将来の予兆の如きものだ。

 先日から読み直している「苦海浄土」は戦後の衝撃的な民衆史を作者が貴重な語りと記述された事実を介し書き残し、書き継いでいる。著者の記憶は文字を介して読者の生き様に様々な自覚と反省を促す。そこに現在の生を生きる挑発と励まし、諦めが交錯する。それが此の世を生きるという本質の如きものと総括しよう。しかし、その経験と観念から何かを立ち上げ将来に渡すのが人という生き物の性というものである。

 さて来年はどのような年になるであろうか。これまでの生の総括と切り開きはどのようになるのか知るよしもない。しかし風は立ち、陽は射し陰る。そのような時の変遷と天空の下で人は生きねばならぬ。水俣病罹患者と近親の地獄と苛酷、福島原発の相馬周辺の人々の現在は近代史、文明史の過程の中で共振している。それらを歴史的に俯瞰し現在の生を交錯させ生き抜くしかない。それが去年今年貫く棒の如きものとして此の惑星に棲息する生き物の世に棲む日々なのであることは忘れないでいよう。

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