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2011年10月26日 (水)

なぶり殺し

 新聞報道ではカダフィの殺害を「処刑」と伝えた報道も見たが果たしてそうなのか。処刑とは通常は組織された政治集団か国家がするものだ。そこには虚礼とはいえ殺され往く者に対する礼儀と作法がある。垣間見たテレビ映像で、それがあったとは思えない。頭蓋に銃弾を打ち込む殺しかた、殺されかたは果たして関わりあった人々の総意を代表しているだろうか。そのようなことがあるわけがない。しかし総意として人は殺し殺されるしかない、という判断があり得る。我が国を含めて幾つかの国家は死刑制度を認めているからだ。では日本人という国民の全てがそうかというと勿論そうではない。アカショウビンは死刑という国民の総意で国家が殺害を代行するという制度の嘘と擬制を認めない。

 まだイラクはサダム・フセインを裁判にかけて殺した。かつて米国はじめ連合国は我が国やドイツの戦争遂行者たちを仮初めにも「法」のもとに殺害した。現在はその国の多くが死刑制度を廃止している。それは中国や日本より歴史を経て野蛮を乗り越えたということである。

 総じて言えば人間は生き物の中で巧妙に生き延びて地球と呼ばれる太陽系の一つの惑星のなかで変化している生き物である。しかしその実態の或る側面は用意周到のようで愚かでたまたま棲息しているにすぎない生き物なのではないか。しかし、それさえも短見で彼の国の人たちが信ずるように造物主がおわしまし或る段階に導かれ辿り着くのかもしれない。

 来月は憂国忌である。一人の小説家が仮初めにも「古式」とでも言える作法に則り自死した歴史的事実を想起する日だ。まだ小説家は潔かった。国の現状に違和を示し自らの命を賭けたのだから。しかし国家という愚劣と人間という未熟は未だに醜態が絶えない。

 マスコミ報道は事実の一部しか伝えない。では真実はあるのか。事実とは何か。カダフィ殺害は恐らく正確には「なぶり殺し」である。激情という感情が同類を殺す。それを「大義」とも「正義」とも称す概念で人間達を支配、導こうという国家がある。それは愚想と妄想であるかもしれないが微かに崇高という反対概念が明滅する。それは錯覚なのか?

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