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2011年9月 6日 (火)

神性の輝きが消えた世界史

 ハイデガーの言説については、以前の記事を再掲し再考しよう。

 「自分自身への審問」という辺見氏の近刊(2006年2月25日 毎日新聞)でハイデガーとボリス・ヴィアンが引用されているのが興味深い。

 ハイデガーは第二次世界大戦の終結後、1945年12月、リルケ没後20周年の講演で「神性の輝きが世界史から消えてしまった」と語り「世界にとっては基礎付けるものとしての根底が見出されなくなっている」 「もはや神の欠如を欠如として認めることができないほどになっている(「乏しき時代の詩人」、『ハイデッガー選集』Ⅴ、手塚富雄・高橋英夫共訳)という箇所(同書 p80)である。

 辺見氏は、この慨嘆はただごとではない、として次のように続ける。

 「基礎付けるものとしての根底」なき世界という言葉は、ハイデガーの意図するところとは別に、ぼくにとって衝撃的でした。二十一世紀こそがもっともそうではないかと思うからです」。

 これはアカショウビンが辺見氏に共感する論説のうちで意外性をもって読んだ箇所の一つである。辺見氏はハイデガーをナチス思想へ加担した責任はともかく、前世紀で無視できない哲学者という視点からその言説を引用している。その「衝撃」とは左翼的な言説が主導する戦後日本の言説の中でハイデガーを読んだ辺見氏の率直な感想として読める。ボードリヤールやドゥルーズ、あるいは9・11直後のチョムスキーの言説に触発された辺見氏の思索をそれは裏付けている。西洋の重要な言説を読み連ねるなかでハイデガーの戦後直後の発言として引用する辺見氏の論説は熟慮するに値する。それはハイデガーの言う「視界(ペルスペクティーヴェ=パースペクティブ)」の幅、あるいは「射程」の確かさを読み込んだうえでの発言として考察する必要があると思うからだ。

 ハイデガーの「存在と時間」(1927年)が当時の哲学界、思想界にとって衝撃的な著作となったことは、その後のハイデガー評価を辿れば見やすい事実である。しかし、それがナチズムへの加担(それは一時的なものではない、というのが「ハイデガーとナチズム」《1987年 名古屋大学出版会 1990年 山本尤訳》でのヴィクトル・ファリアスの告発だが)を通したものである、と戦後に読み解かれるハイデガー哲学は西洋哲学への広大な視線、視界のもとで論じられる。ハイデガーが言う「西洋の運命」として論じる言説はキリスト教を含めた「西洋哲学」の根底を問う問いでもあったからである。

 ハイデガーは「ヒューマニズムについて」(1947 年 ちくま学芸文庫 1997年 渡邊二郎 訳)で次のように述べる。

 「エッセンティア(本質とエクシステンティア(現実存在)との区別は、その本質の由来においては隠されているが、この区別は、西洋の歴史の運命およびヨーロッパ的に規定された歴史全体の運命とを、隅々に至るまで支配している。(p52)

 更に次のように続ける。(途中省略)

 「『存在と時間』のうちでは、エッセンティア(本質)とエクシステンティア(現実存在)との関係に関しては、なんらの命題もまだまったく言明されうる状態にはなっていないということ、これである。というのも、そこでは、ある先-駆的な事柄を準備することが、肝要だからである。この準備作業は、そこで言い述べられた事柄にしたがって見れば、甚だ不器用な仕方でしか果たされていない。いまもなお初めて言われるべきその事柄は、多分、人間の本質を次の地点に至るように大切に見守りながら導くための推進力になりうるであろう。思索することを通じて、人間の本質を隅々になるまで支配しているところの、存在の真理という次元へと、注意を向けるようになるという地点が、それである。けれども、このことといえどもやはり、そのつどただ、存在の尊厳を顕すためにのみ行われ、また、人間が、存在へと身を開きそこへと出で立つありかたにおいて耐え抜くところの現-存在のためにのみ行われるのであって、反対に、人間のことを思い煩い、人間の創造活動によって文明や文化が効力を発揮するようにと目論んで行われるのではけっしてないのである」。(同p53)

 この箇所は戦後のハイデガーがパリ在住のプラトンとハイデガーの研究者であるジャン・ボーフレに宛てた書簡のなかで開陳されているハイデガーのサルトル批判である。(18サルトル批判-形而上学と存在忘却)

 戦後フランスあるいは日本の思想界を牽引していたサルトルの哲学思想にハイデガーが「存在と時間」以後の「西洋の運命」を思索するなかでの発言として、これはとても興味深いではないか。辺見氏は若い頃、サルトルやチョムスキーら欧米の言説に刺激されたあと通信社の仕事で中国や海外での仕事を続けながら9・11以降は米国やアフガニスタンも訪れ思索を続行しているのは明らかだ。その「現在」での辺見氏の思索がアカショウビンにも実に興味深いのである。

 また引用されているボリス・ヴィアンはアカショウビンも熱心な読者ではなかったが学生の頃に読んだ著作である。実に久しぶりに「ボリス・ヴィアン」という文字に接し触発された。辺見氏は次のように引用している。(同書p77)

 ボリス・ヴィアンだって言っているじゃないか。この世には二つのものだけがあればいいって。恋とデューク・エリントンだけ。「ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから」(『日々の泡』の「まえがき」)。

 この箇所で辺見氏は反語的にボリス・ヴィアンを引用しているのだが氏の言説の背景にアカショウビンが共鳴する部分でもある。春の兆しが空気に感じられる日曜日にモーツァルトのコンチェルトやピアノ・ソナタを聴きながらこのような文章を綴ることができるアカショウビンの「今」は何と幸せな時ではないか。あるいはヴィアンの愛する「デューク・エリントン」は戦後フランスの中での「米国」という国家のひとつの意味を象徴させているとも言えるだろう。辺見氏の言説を読み共感、挑発されるのもアカショウビンの「現在」なのである。

 このハイデガーの戦後の論壇への再登場は政治的にはともかく戦前・戦中・戦後と一貫して、そして戦後に大きく転回(転向)した思索を辿れば新たな光芒を放っているとアカショウビンは確信するのである。それから60数年が経過した。果たしてハイデガーが指摘した消えた神性の輝きは消え失せたままなのであろうか?今回のフクシマを根底から考え抜くときハイデガーの指摘を抜きには世界の将来像は確かな姿をとって現れることはない、というのがN君の問いに対するアカショウビンの曖昧な回答の理由である。ハイデガーの思索は人類史を俯瞰した思索とも言える。それを思索することは、人間という生き物の負う、仏教でいう「業」や「仏性」を改めて考察することでもある。晩年に至る戦後の論説・発言は或る重さを有した啓発・挑発される言説・論説と思うのだ。

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