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2011年9月12日 (月)

生死の汽水

 先月、弟が腎盂ガンの摘出手術していた間に読んでいた本は辺見 庸の近刊『水の透視画法』(2011年6月20日 共同通信社)だった。午後1時40分、手術室に入る時に声をかけ、終わったのは午後6時15分。麻酔で昏睡し5時間半の手術に堪えた顔は火照り痛々しかった。母の手術の時に兄は再就職が決まったばかりで弟に頼んだ。術後の介護も弟に任せた。その弟が部位は異なるけれども母の立場に回る。何か因縁めいたものがそこに作用しているのを感じた。

 辺見(以下、敬称は略させて頂く)の近刊は脳梗塞による半身不随のリハビリの毎日の身辺雑記と世相への違和と告発である。著作の全体的なトーンは反骨のジャーナリストで小説家の気迫が漲っている。そこに一篇だけ辺見の母親を描いた一文がある。「キンモクセイの残香 生死の汽水」というタイトルだ。息子は余命を宣告された母親に会いに行く。「延命治療はすでにことわっていた」という。しかし余命を越えて「その人」は生きた。母と息子の「生死の汽水」での出会いは筆舌に尽くせない。辺見の文章には衒いの違和感もある。しかし娑婆に産み落とした女と子供の絆の如きものが格別である事は直感する。「記憶よりふたまわりも小さくなって、ホテルのロビーのソファに全身うずまるようにして私をまっていた」姿は我が母の姿と重なる。

 「生死の汽水」は此の世を生きる人間すべてに訪れる。弟の余命がどれほどあるか。転移はないと医者はいうけれども。全摘された弟の片方の腎臓を執刀医から見させられた時に手術の苛酷さに畏怖した。親子、兄弟の縁は格別である。此の世に棲む日々を共有した記憶の点景は時に鮮明に甦る。それは風景や音、また辺見が思い起こすキンモクセイの香りとなって。アカショウビンの生もこの数年は汽水の如きものである。その渦中に母や弟の汽水が伝えられる。それは地震や津波で覚悟の時間もなく逝った人々とは異なる猶予をもつ。それが幸いか不幸か。それは幸いである。人は思い悩み、思索する生き物であるなら、思索家がいうように、死を覚悟することは人として「能く生きる」ことだと思うからだ。

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