« 生死の汽水 | トップページ | 信州・安曇野 »

2011年9月19日 (月)

語りえぬもの、とは何か?

 昨日の毎日新聞の書評欄が少し面白かった。『語りえぬものを語る』という著作への書評である。評者は演劇評論家という肩書き。これが哲学の本か、と書評氏は、そのわかりやすさに驚き感嘆する。著者は著作のなかで「哲学は学問的に厳密であろうとするあまり、時に現実を忘れる」とフッとつぶやくように書いている、とも。評者は「このつぶやきは何気ないようであるが実はアカデミックな哲学に対する批判であり、一般読者の、普通の常識に立った視点である」と評す。

 著者の「われわれも分節化されない非言語的な場に晒されている。だが、人間の場合には、そこに言語によって分節化された世界も開けている。非言語的な場に晒されつつ、言語的に文節化された世界に生きる、この二重性こそ、人間の特徴である」と言う箇所を引用する。

 この論説は、先日読み終え、再読しているハイデガーの「思索の事柄へ」に架橋される。それは戦前・戦中・戦後を哲学教師として、ナチズムへの礼賛者として、そのため致命的な負荷を負った思索者として戦後を生きた人物への批判としても、彼が終生こだわった存在、有への問いを更に一歩進めて問い直す契機として啓発される。

 語りえぬものが先にあるのではない。現象として生じているものから現象として生じていないものを語ろうとする意志と衝動が現在を生きている、われわれ現に存在する人間たちに生ずるのである。それをハイデガーは「開け」として指摘した。

 航空技術やテレビジョン、原爆・水爆を含めて近代技術の進歩と逆行して西欧は「存在を忘却した」と告発するハイデガーの思索は再考される余地を残している。それはハイデガーが「存在を忘却した」ヨーロッパと対決して考え抜かなければならないと規定した東洋思想の渦中に生きる日本人、アジア人、東洋人として。晩年に哲学の終末を説き、そこに残されている終末で完成されることのない別の思索の可能性を説く思索者の思索の急所に立ち入るのは容易ではない。しかし己の無学を超えて挑まねばならない境地がそこには有るように思われる。アカショウビンが娑婆世界を生きる楽しみはそこにあるといってもよい。

|

« 生死の汽水 | トップページ | 信州・安曇野 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/52771445

この記事へのトラックバック一覧です: 語りえぬもの、とは何か?:

« 生死の汽水 | トップページ | 信州・安曇野 »