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2011年8月21日 (日)

書評の書評

 今朝の毎日新聞の書評欄を興味深く読んだので感想を少し。

 「つぎはぎ仏教入門」(呉 智英著 筑摩書房)の書評を藤森照信氏(以下、敬称は略させて頂く)が書いている。若き日の呉の自問に現在64歳の呉が答えた一冊と。若い頃の呉は「野間宏の親鸞論は、ただ人間は平等だと言いたいだけである。吉本隆明の親鸞論は、ただ大衆はすばらしいと言いたいだけである。国粋主義者たちの日蓮論は、ただ日本は世界一と言いたいだけである」と思っていたらしい。それから呉は仏教を考察してきたという。しかし、その若い頃の感想自体が浅薄だ。野間も吉本の著作も、そんな軽薄なものではない事は著作を読めばわかる。これをして新著を読みたい気にはなれない。藤森は新著が「仏教をキリスト教と比較して論を進めるのが秀逸」と讃えているが、それは既に吉本が指摘している。呉も独自にか吉本の受け売りか知らぬが親鸞を信者としてでなく思想として読む者たちには周知の事と言ってよい。そこに新味はない。

 呉は、大乗仏教を批判して小乗に共感しているらしいが、そのような論考は掃いて捨てるほどあるだろう。藤森が「深くて魅力的な大乗仏教の救済の思想を著者はなぜイコジに切り捨て、狭い小乗仏教の側につこうとするのか」と疑問に思い、納得したのが「死の問題だった」として、呉が「人間にとって死の恐怖は、自分が負の無限に呑み込まれること、絶対的な虚無の中を漂うことである」と書いて、呉は初期仏教を発見したと藤森は書く。

 そこにも新味はない。呉の論説はともかく、釈迦の金口直説とされる雑阿含(ぞうあごん)経には、「生あるが故に、老・死があるのである。」ゆえに、「生を滅することによって、老・死は滅するのである」と説かれていると藤森は書く。その一文を介して、「この真理に目覚めることが覚り。迷える人間が仏となる境地」と続ける。「宗教など信じぬ」呉は吉本隆明が広言しているように、死後の存在など信じない唯物論者、厳密には唯物主義者だろうが、呉の論説と吉本の論説に異同があるのは言うまでもない。アカショウビンとしては親鸞、日蓮、道元の論説に導かれながら仏教の真髄を辿り啓発されたいと願うばかりである。

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