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2011年8月26日 (金)

ことばに見はなされること

 タイトルは、辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)が2008年3月から2011年3月までに古巣の共同通信社が「水の透視画法」という連載企画で全国加盟新聞社に配信した一群の短文のうちの一つのタイトルである。このほど単行本化されたもので初めて読んで挑発された。1行、41文字で47行。辺見が思考する問題の姿が浮かび上がる。

 アカショウビンが辺見の或る新聞コラムを読んで感銘を受けたのは十年以上も前になる。それは中国の友人と、辺見が中国を離れる(退去させられたときか)ときに交わした会話をもとに綴ったものだ。その時の回想が改めてこの書物の中にも「はかりしれないもの」という一文の中で繰り返されている。辺見にとっても忘れがたい経験と思われる。

 辺見という作家はアカショウビンが若いころに読み耽った開高 健という作家とも相通じる感性があって興味深いのである。開高は小説家として新聞社のベトナム戦争取材記者も務めた。その痛烈で苛烈な戦場体験はルポルタージュの文章とは別に「輝ける闇」、「夏の闇」という小説作品として結実した。それはルポの文体とは異なる開高という作家の感性が横溢している作品だ。通信記者として世界を飛び回った辺見が開高を意識していないわけがない。食い物に対する執着もそうだし、日常の点景に対する執拗で独特の視線も質は違えど共通する感覚を少なからず有する両人だ。

 「ことばに見はなされること」という事態を辺見はこうも書く。「人間がことばにうち捨てられることだ」と。そして、それを指摘したのは自分(辺見)ではなく或る日本人だ、と。

 そこから辺見は「失語」という人間的状況について石原吉郎の発言を引用する。シベリアの強制収容所から帰国した詩人は「失語と沈黙」という著書のなかで、「いまは、人間の声はどこにもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかり聞こえる時代です」と書いている。それは「七〇年代初期、自他の声がまだよくとどいていたとみなされていた時代のことである」と辺見は注釈する。辺見は石原を「絶対的孤立者」と形容する。そして、この一文の締め括りにベンヤミンを引用して「内奥の沈黙の核へむかってことばを集中的に向けてゆく場合のみ、(ことばは)真の働きが得られるのです」と書く。

 ハイデガーは戦後の世界を神々に立ち去られた時代と喩えた。ハイデガーが存在論と現象学を通じて深めた思索はベンヤミンの指摘とも激しく共鳴している。辺見の日常と思索が仄見える一文、一文はアカショウビンの寝ぼけた身体と精神を少し刺激する。近いうちに先日読み終えた晩年のハイデガーの「思索の事柄へ」の中の講演起こしの難解だがハイデガーという人物の思索した領域の全貌が見渡されるような論考の感想も書き留めておかねばならない。

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