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2011年7月24日 (日)

有とは?

 存在や有と訳されるSeinというドイツ語でハイデガーは人や生き物を含めて、この惑星に棲息する存在者と時間を哲学的に、また己の生き方を介して生涯を賭けて思索し続けた。その思索は、死とは何か?という問いも著作の中で我々にも反照する問いとして問われる。そのようなことをアレコレ愚考するのもアカショウビンの怠惰な日常生活のなかで時に鮮烈な映像やドキュメンタリーフィルムとして突きつけられるからだ。

 先日、NHKテレビで18歳の少女が生を終えるまでの経過を辿った番組を途中からだが見た。透析を受けながら生き続ける姿は凄絶で時に涙が噴き出る痛烈な映像だ。老齢の女性とのメールには人間という生き物の、あはれと崇高さが浮き彫りにされていた。親にとって子供に先立たれる哀しみとも悲哀とも痛恨とも言葉で現わされる苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。

 老齢の女性はクリスチャンなのだろう、聖書の文言を引いて少女が経験する生の悦びと苛酷を伝える。それが少女の心の深淵にどこまで届いたか知らない。しかし親子の情愛を映像で見ると、そこには人が此の世で生き死ぬ、という事実・現象がどのような事であるのか?という問いとなって迫ってくるのだ。

 田中好子(以下、敬称は略させて頂く)や原田芳雄の死に対してマスコミを介した映像や文章を読むと、改めてそのような問いを発したくなるのだ。それは肉親や近親など縁ある人々の死に至る姿と錯綜する。

 存在や有、現存在(中国語では親在らしい)、元有、と訳されるドイツ語を介し現象学、存在論という領域でハイデガーは生涯思索した。そのような思索に映像や文章で届き伝えられる人や生きる者たちの生と死が反響し照応する。

 先日は久しぶりにレンタルDVDで「もののけ姫」を観直し宮崎ワールドを堪能した。そこで描きだされる〝獅子神〟のイメージが圧倒的だ。それは欧米のキリスト教文化圏で未だに通用している〝神〟という概念では捉えきれない姿だ。そのイメージと多彩・多様な映像を介してハイデガーが示す有が横溢している作品を大いに楽しんだ。

 此の世に生を受け喜怒哀楽を体験・経験し時に絶望にも落ち込む。それでも遊び戯れ、彼岸に至りたいと切に思う。ところが仕事に追いまわされる日々が情けない。

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