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2011年7月 6日 (水)

関心と無関心の間

 昨夜の夕食は会社近くの洋食店でとった。久しぶりで気分と体調にまかせてぶらりと。テーブルにおいてあった新聞を流し読みしていると小澤征爾(以下敬称は略させて頂く)がジュネーヴで活動を再開した記事。ローマ支局発のベタ記事である。曲目はモーツァルトのニ長調のディヴェルティメント、チャイコフスキーとだけ。それだけでは何という曲なのかわからない。予想はついたが確かめておきたい。アカショウビンは小澤という人に多少の関心を持つ者である。

 世の多くの人は小澤某という人物に無関心であろう。クラシック音楽を生業とする一部の人々なら多少の関心はある筈だ。クラシック音楽ファンの中では氏の生み出す音楽への好き嫌いの内輪話で喧しいと思われる。アカショウビンはそれらの無関心と関心の間の多少の少寄りのポジションで関心を持つ者である。だから新聞のベタ記事の情報不足に苛立ちながら帰途についた。

 いわゆるアナログ人間の日常行動は情報をネットで探すなどということはしない。帰途の電車の中では30年前に読んだボロボロの新書を読み直す。それが一日の中で仕事とは別な時間にもっとも集中力を発揮する時だ。あとはトイレの中での読書くらいか(笑)。

 帰ってから探し出したのは数年前に買ったモーツァルトのディヴェルティメントとセレナーデ、マーチを集めたセット。ところがニ長調のディヴェルティメントは幾つかある。

 結局はネットでそれがk136であったことが判明した。アナログ人間も、この20年くらいでデジタル化している。少しの関心の中で、移り気で分裂気質は小澤からモーツァルトへ移ってしまった。k136の他いくつか聴き直したディヴェルティメントの感想は後日。

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コメント

小澤征爾ねぇ(笑)
自分も少の方ですね。
ニュースで見ましたが痩せ痩けて一瞬トスカニーニの様で…音も?

投稿: snokey.F.164 | 2011年7月 9日 (土) 午後 07時53分

 snokey.F.164さん

 久しぶりのコメントありがとうございます。その少のなかでも私は小澤(以下、敬称は略させて頂きます)という指揮者の動向に多大の関心をもっているほうだと思います。モーツァルトのk136を選んだのは師の齋藤秀雄の末期のベッドで教え子達が演奏したと伝えられる曲を小澤が次代を担う若者達に立場を替えて音楽の何たるかを伝え教えたかったからでしょう。齋藤は「もっと歌え」と死の床から教え子たちを叱咤したと聞いています。演奏するとは楽器を介して歌うことだと言うことではないでしょうか。小澤という指揮者は齋藤の指揮法が他の教え子たちの器楽演奏家への影響と共に世界で通用することを証明した見事な例だと思います。
 一部のクラシック・ファンからは評価の低い指揮者かもしれませんが私は佐渡 裕とも共通する浪花節的な魂を持つ音楽家として敬愛するのです。

投稿: アカショウビン | 2011年7月11日 (月) 午前 05時56分

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