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2011年7月30日 (土)

真実と真理の間

 現実と歴史事実と言える領域の事を考えてみよう。同様に真実と真理という用語を用いてもよい。その違いは何か?たとえば人という生き物の間で認識される事実と、真理という用語で彼らが了解する、哲学用語で言えば観念的な領域で理解される事との違いがある。そこで境界という領域が想定されるだろう。それぞれの間を繋ぐには何が必要だろうか?それは人間という我々の間で体験され了解される事柄と動物や植物、あるいは微生物の間を繋ぐものでもあるだろう。

 先のブログで書いた18歳で亡くなった少女の生死を再考、熟考することは上記の事柄を人間の思索として考察する時に、仏教で説く縁起という概念とそれは関連してくる。真実と言い、真理という漢語は中国語と日本語の間でもズレが生じているだろう。それはヨーロッパ各言語の用語間のズレも同様なものである。しかしその間で共通に理解される本質の如きものがある筈だ。もちろん本質という用語も西洋哲学の翻訳語である。そこで本質という用語を介して西洋哲学が捉え思索、思考、考察してきた言説、論説は異なる言語を介しても了解、理解はできると考えるのが人間という生き物の特異性とも言える。それは運命とも命運という用語でも考察することが出来るだろう。そこで近代西洋哲学で生み出された超越論という領域に光をあてる作業が必要だ。

 死とは超越なのだろうか?少女は透析を自らの意志で止めた。それは自殺ではなく自死という言葉がふさわしい。そこで超越論と死とを結びつけることが可能だろうか?その問いと回答を夏の間に試みよう。

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2011年7月24日 (日)

有とは?

 存在や有と訳されるSeinというドイツ語でハイデガーは人や生き物を含めて、この惑星に棲息する存在者と時間を哲学的に、また己の生き方を介して生涯を賭けて思索し続けた。その思索は、死とは何か?という問いも著作の中で我々にも反照する問いとして問われる。そのようなことをアレコレ愚考するのもアカショウビンの怠惰な日常生活のなかで時に鮮烈な映像やドキュメンタリーフィルムとして突きつけられるからだ。

 先日、NHKテレビで18歳の少女が生を終えるまでの経過を辿った番組を途中からだが見た。透析を受けながら生き続ける姿は凄絶で時に涙が噴き出る痛烈な映像だ。老齢の女性とのメールには人間という生き物の、あはれと崇高さが浮き彫りにされていた。親にとって子供に先立たれる哀しみとも悲哀とも痛恨とも言葉で現わされる苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。

 老齢の女性はクリスチャンなのだろう、聖書の文言を引いて少女が経験する生の悦びと苛酷を伝える。それが少女の心の深淵にどこまで届いたか知らない。しかし親子の情愛を映像で見ると、そこには人が此の世で生き死ぬ、という事実・現象がどのような事であるのか?という問いとなって迫ってくるのだ。

 田中好子(以下、敬称は略させて頂く)や原田芳雄の死に対してマスコミを介した映像や文章を読むと、改めてそのような問いを発したくなるのだ。それは肉親や近親など縁ある人々の死に至る姿と錯綜する。

 存在や有、現存在(中国語では親在らしい)、元有、と訳されるドイツ語を介し現象学、存在論という領域でハイデガーは生涯思索した。そのような思索に映像や文章で届き伝えられる人や生きる者たちの生と死が反響し照応する。

 先日は久しぶりにレンタルDVDで「もののけ姫」を観直し宮崎ワールドを堪能した。そこで描きだされる〝獅子神〟のイメージが圧倒的だ。それは欧米のキリスト教文化圏で未だに通用している〝神〟という概念では捉えきれない姿だ。そのイメージと多彩・多様な映像を介してハイデガーが示す有が横溢している作品を大いに楽しんだ。

 此の世に生を受け喜怒哀楽を体験・経験し時に絶望にも落ち込む。それでも遊び戯れ、彼岸に至りたいと切に思う。ところが仕事に追いまわされる日々が情けない。

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2011年7月20日 (水)

原発と田中正造

 4日の毎日新聞の夕刊3版で原発問題に鋭い言説・論説を提示している小出裕章助教に取材した記事が掲載されている。「私が最も敬愛している人です」と氏の研究室には田中正造の晩年の写真が大きな「ついたて」となって掲げられている写真と共に。「原発には都会が引き受けられないリスクがある。そのリスクを、都会の住人は社会的に弱い立場にある過疎地の人々に押しつけている。仮に原発事故が防げても、原子力を使い続ける限り核のゴミ(放射性廃棄物)は増え続けるし、人間はそれを無毒化できない。私たちの世代は、自らの利益のために、選択権のない後世にその『毒』を押しつけているのです」。その言や好し。その毒と小出氏の言説・論説は足尾銅山の鉱毒事件と生涯戦い続けた田中正造の毒と生涯と反照し響き合う。

 氏は参考人として出席した5月23日の参院行政監視委員会でガンジーの七つの「社会的罪」を挙げたと記者は書いている。残りは書かれていないが「道徳なき商業」と「人間性なき科学」である。前者を東電、後者を自らも含めたアカデミズムに当てた、と記事は続く。重ねて、その言や好し。それは「水俣」にも共通する歴史的現実である。「科学の進歩」と言う歴史的区分での「近代」のスローガンの含む意味と事実が鋭く問われているのだ。

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2011年7月13日 (水)

黴雨あけ

 塚本邦雄が逝った時に思い起こした歌がある。 

 切って棄てたる愛國心の残臭と黴雨あけ塵芥函の濃紫陽花

 2005年の6月9日。あれから6年が過ぎている。塚本が視た鮮やかな紫陽花を今年は未だ見ていない。この歌の「愛國心」と「塵芥函」の対比が痛烈だった。そこに「濃紫陽花」の色が鮮烈だ。それが戦後を生きる一人の男の日常を炙りだしているように思えたのだ。

 夏の陽光は、歴史の果てに現存する悲哀と苦痛、怠惰を思い知らせる。

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2011年7月 6日 (水)

関心と無関心の間

 昨夜の夕食は会社近くの洋食店でとった。久しぶりで気分と体調にまかせてぶらりと。テーブルにおいてあった新聞を流し読みしていると小澤征爾(以下敬称は略させて頂く)がジュネーヴで活動を再開した記事。ローマ支局発のベタ記事である。曲目はモーツァルトのニ長調のディヴェルティメント、チャイコフスキーとだけ。それだけでは何という曲なのかわからない。予想はついたが確かめておきたい。アカショウビンは小澤という人に多少の関心を持つ者である。

 世の多くの人は小澤某という人物に無関心であろう。クラシック音楽を生業とする一部の人々なら多少の関心はある筈だ。クラシック音楽ファンの中では氏の生み出す音楽への好き嫌いの内輪話で喧しいと思われる。アカショウビンはそれらの無関心と関心の間の多少の少寄りのポジションで関心を持つ者である。だから新聞のベタ記事の情報不足に苛立ちながら帰途についた。

 いわゆるアナログ人間の日常行動は情報をネットで探すなどということはしない。帰途の電車の中では30年前に読んだボロボロの新書を読み直す。それが一日の中で仕事とは別な時間にもっとも集中力を発揮する時だ。あとはトイレの中での読書くらいか(笑)。

 帰ってから探し出したのは数年前に買ったモーツァルトのディヴェルティメントとセレナーデ、マーチを集めたセット。ところがニ長調のディヴェルティメントは幾つかある。

 結局はネットでそれがk136であったことが判明した。アナログ人間も、この20年くらいでデジタル化している。少しの関心の中で、移り気で分裂気質は小澤からモーツァルトへ移ってしまった。k136の他いくつか聴き直したディヴェルティメントの感想は後日。

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