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2011年6月22日 (水)

祈りと信の本質

 早起きは三文以上の得である。今朝起きていつものようにテレビを音なしでアレコレ観ていると外国の合唱団の映像に眼が止まった。音を出すと何と「黒い瞳」である。久しぶりにこの名曲を美しいハーモニーで聴いた。それは祈りの如きのものである。字幕でモスクワの国立合唱団であることが知られた。オペラでもロシアのバスやバリトンは定評のあるところである。続いてラフマニノフの初期の宗教曲。それはロシアの風土と歴史に根差した音と人々の姿と声だ。自ずと記憶が呼び戻されロシアの映画作品やラフマニノフの他の作品が脳裏に明滅する。かつて業界の研修旅行で初めて訪れたウラジオストクの街と人々の姿も思い出された。そのころロシアは経済的な苦境にあった。ナホトカの日本人墓地の白い墓標や訪れた教会の入り口で物乞いする老婆の姿や芸人達はドストエフスキーの小説で出会った人々の生の姿だった。それは存在論というフィルターを介せば、人間という存在がこの惑星で現象する様々な事実の一つである。

 この数か月、この国や世界は辺見 庸の言う「宇宙のクシャミ」に表面上は震撼されている。いずれ、それも忘れ去られ再び「宇宙のクシャミ」が発されるだろう。その繰り返しの中に人類は生存してきた。それもいつか絶える時が来る。それは死という現象で予兆され予期される。死する人の姿から残されて生きる人々はいつか来る自らの死を想定し喜怒哀楽の過程で祈る。

 吉本隆明が「最後の親鸞」で考察し思索した親鸞が「信」という漢語に含まれる意味を追求した思索は引き継いで考察しなければならない。信ずる、信じると使われる言葉の全容はかつて親鸞という人が隈なく考え尽くしたと学者や小説家、思想家は説く。それは現世を生きる者として宗教や思想を超え死にゆく者としてアカショウビンも思索したいと欲するのである。親鸞は「欲望から出発して、意識、自己意識、理性へとたどっていった困難な作業」(野間宏)を遂行した。それは世界史ではヘーゲルに先立つと野間は書く。吉本の思想もそれを踏まえているだろう。それは宗派的な垣根を越えて更に追求されるべき領域である。私的な窮境を経験しながら時に恩寵の如き時もある。それも怠惰な日常では阿呆のように忘れるのであるが愚考は重ねていこう。

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