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2011年5月 6日 (金)

憂鬱と活路

 面白くなき世を面白く生きるにはどうするか?さいわいアカショウビンは戦争の災禍を経験することもなく生死に関わる天災に見舞われることもなく生きてこられた。その間には人並みの喜怒哀楽を経験した。50年を過ぎれば老いの兆候も生じる。病にも罹る。今年になり関わりのあった知人や友人が続けて亡くなった。映像で親しんできた芸能人や俳優も亡くなっていく。娑婆での生がどれくらいあるのか知らぬ。しかし娑婆と言い、此の世と言い、世界と言う時空間が何なのかを知りたく思う。それには絶望と希望、悲しみと喜び、笑いと緊張の間に意志を漲らせねばならない。消耗し衰退するにせよ聊かの抵抗はしよう。遊びをせんとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけむ、である。

 多くの人という生き物を「畜群」と見做したのはニーチェである。その思索と考察はいずれ検証するとして自然の猛威であはれに酷く人は死ぬ。それは能く死ぬ死に方ではない。一人の男が国家意志によって殺される。それを讃える者たちがいる。それを批難できる者は誰か?そもそも、この惑星に棲息し蔓延る人間とは如何なる存在なのか?

 ウンザリしゲンナリし気力を消耗し、それでも此の世を遊び戯れるには工夫がいる。時間の切り売り仕事の中にどのように活路を開き意味を充填するか?それが少なくともアカショウビンの現在を未来に渡す正念場である。

 先日「悲しみのミルク」というペルー映画を観てきた。ヒロインは絶望のなかで生きるためにあるいは死の際でもがき生きる。そのあとで先の大戦を描いた「戦火のナージャ」という作品も。陳腐な日常も映像の力が刺激を齎す。帰宅しテレビを見れば震災報道と彼の国の結婚式のバカ騒ぎである。それが娑婆で人間という生き物の生き様だ。それはニーチェが唾棄する畜群の姿でもあろう。禍福は正に糾える縄の如しである。

 先にも書いたけれども1月末に若くして亡くなった同僚のUさん宅を彼女と仕事を共にしたT君と先日、遅まきながら訪ねた。既に夫を亡くし、一人娘に先立たれた母親の悲しみはいかばかりか。此の世は何と酷いものか。人の孤独はそれぞれである。そこを切り抜けるにはどうするか?あの世を想定し希望を見い出すのか?「神に召された」と書かれたお母様にはクリスチャンとして天国を想起しそう信ずるのかもしれない。現世の苦しみを凌ぐには人間が生み出した一つの工夫とも言える。しかしそれで苦しみは超えられるのか?明日は明日の風が吹く。憂鬱を超える活路はありやなしや。

   

  

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