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2011年4月 9日 (土)

日々雑感

 このところ読書意欲にも音楽を聴くことにもレンタルDVDを借りて観ることにも集中力が欠けていた。ダラダラと日常を凌ぎながら生きたとも言える。これは誠に宜しくない心身状態である。それでも保田與重郎の「日本に祈る」は読み直した。「日本に祈る」は戦後の文壇・論壇から爪弾きにされた文人・思想家の思索と生き様を伝えた一冊だ。戦後に変節した思想家・文学者がゾロゾロいた中で保田は戦前・戦中・戦後をほぼ首尾一貫して立場を貫き通した。その全仕事を通覧すると一人の意固地とも見える文人の拠って立つ姿と時代が透かし見えるのである。そこに保田が生涯をかけて否定した西洋の「近代」という時代をハイデガーやニーチェというフィルターをかけて考えると何事かの本質の如きものが炙りだされ理解される。

 何も保田を礼賛するわけではない。意固地の原因が戦前・戦中の著作を経て戦後から亡くなるまで書き継いだものを読めば少しは腑に落ちるのである。この月日の昭和20年の沖縄は地獄の様相を呈していた。春から夏に向かう時節に沖縄は落ち、内地の都市空襲は益々激しさを増し、二発の原爆で大日本帝国は息の根を止められた。その過程を忘れまい。なぜなら我が母が少女時代に我が祖父と乗っていた船が米軍機の襲撃に遭遇したとき 「屠殺場のようだった」と語った場で殺されていたらアカショウビンは此の世に存在することはなかったからである。

 先週は気になっていた文庫を一冊購入した。吉田秀和氏の「マーラー」である。今や90余歳の長寿を生きている音楽批評家がこれまで書いたものを集めたものだ。マーラーという音楽家を若い頃はあまり好きではなかったと正直に明かす稀代の批評家が人生の終盤になり率直なマーラー観を記している。その幾つかは、かつて読んだ文章だがバッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといった音楽家に比べればはるかに少ない批評しか書けなかった音楽家の一生が文庫一冊で精緻な作品分析を通し集約されている。時に通俗的とも貶されてきた優れた指揮者で作曲家だった人の音楽はそれまでの通説を覆す内実を持っていたことを批評家は理解する。それは怠惰な日常に喝を食らわされた効果はあり啓発された。しかし音楽は文章より実際に聴くことだ。アカショウビンも久しぶりにマーラーを集中して聴いている。

 大震災・津波・原発という三点セットが日本国と日本人の生き方にどのように作用し将来の選択となっていくのか。それを辿り血肉化することは同時代に生きる者として怠慢であってはならない。しかし人はいとも簡単に忘却する。これから夏まで、気力を駆り立て歴史を振り返り何らかの実りを得る精進を続けたい。

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