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2011年3月14日 (月)

近代文明の行き着いた先

 何とも悲惨な状況を映像で眺めているしかない。原発は科学技術を盲信する人間への天罰と言うこともできよう。ハイデガーや保田與重郎を読んでいると彼らは既に近代という時代区分が内包する本質の行き着く先を予知していたようにも思う。しかし乗った船から安易に降りることもできない。文明はこの惑星に遍く行き渡り支配しているのだから。日本人というより人類にこのような危機を契機に根本的な転換をすることができるのだろうか。事態は極めて深刻というしかない。

 病院で亡くなった我が父母やK先生、かつての同僚の若い才女の死は、地震で寸時、瞬時のうちに亡くなった人からすれば手厚い看護を受け遺族たちとも貴重な時間を過ごした安らかな死というべきだろう。しかし巨大地震や大津波で亡くなった人々はハイデガーのいう「能く死ぬ死に方」ではない。日本人は戦争も天災も粛々として受け入れ従ってきたというのが保田や小林秀雄の言説だが、それを現在に生きる私たちが鵜呑みにし全肯定するわけにもいかない。文明の恩恵と危険を身をもって体験、経験しながら私たちは現在を生きている。そこで死をどのように受け入れ迎える思想・宗教・哲学を再考、熟考し自らの行為とするか、というのが人類に問われている難問だと思うのである。

 先々日の地震の翌朝、会社で徹夜明けの土曜日に「浮雲」という成瀬巳喜男の1955年の作品を映画館で久しぶりに観て来た。これは敗戦の翌年に人々が引き上げて来る恐らく実写フィルムを使って物語の導入部にしている。それは戦争禍に生きる人々の姿だが、そこには苛酷な日常の中で男や女、子供や大人達の姿が描かれている。小津安二郎監督はこの作品を見て年間の最高作と判断した。小津作品とはまるで異なる成瀬作品だが映像作家が描いた人間達の姿には本質を見抜いた力がある。娑婆を生きる楽しみはそこにある。そしてとりとめもない愚考を巡らす。その一端を書き込むのがこの仮想空間である。

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