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2011年3月 5日 (土)

死とは

 将棋名人戦の挑戦者は森内九段に決まった。アカショウビンとしては渡辺竜王になってほしかった。ところが2日に行われた順位戦の最終局は意外な展開。森内・渡辺のプレーオフを予想したのだが渡辺が丸山に負け、森内が久保に勝ち、あっけなく挑戦者が決定した。それもリアルタイムでなく後で知ったのは情けない将棋ファンである。以前なら仕事など放り出して千駄ヶ谷の将棋会館に駆けつけ終電を気にしながら結果を確認して家路についたものだ。寄る年波には勝てない。ネットで結果は報じられているはずだがプレーオフを予想し午後10時過ぎには床に就いた。結果を知ったのも翌日の毎日新聞の夕刊と翌々日の朝刊。期待外れだったが春は名人戦を楽しむのが娑婆の楽しみだ。NHK杯は羽生が渡辺を攻め倒した。しかし七番勝負は棋士が二日間知力・体力をふり絞り闘う。その経過を楽しみたい。

 本日、K先生の御宅を弔問した。先生の奥様とは初めてお会いし遺影に対面した。奥様から闘病の詳細を問わず語りにお聞きした。それは先生、奥様はじめ家族の苛酷で凄絶な闘いだった。外科、放射線照射、と出来る限りの治療を受け、先生は生きる希望を捨てなかった、と奥様は語られた。それは家族や近親にしかわからぬ経験と体験だろう。そこで繰り返し問う。死は人間という存在にとって何なのだろうか。K先生の死とハイデガーの一文を介して更に再考しよう。

 >死ぬことができるとは、このはらんで耐え抜くことを能くする、ということである。われわれがこのことを能くするのは、われわれの本質が死の本質をよしとするときだけである。

 ★K先生は奥様の話では正にそのような死を迎えたように思えた。

 >しかしながら、数えきれないほどの死のただなかでは、死の本質は立てふさがれたままである。死は、空無でもなければ、有るものが別の有るものへ変わってゆくだけの移行でもない。

 ★死の「本質」へ踏み込もうとハイデガーは肉薄する。それは洋の東西を問わぬ人間達の関心の急所である。アカショウビンも現在を生きながら、やがて至る死と無縁ではない。

 >死は、元有の本質から出来事として本有化される人間の現有に属する。このように死は元有の本質を守蔵している。死とは、元有それ自身の真理を守蔵する最高峰の山脈である。この山脈は、元有の本質の隠されたありさまを内部に守蔵し、この本質の守蔵を集成する。それゆえ、人間が死を能くするのは、元有それ自身がその本質の真理にもとづいて、人間の本質を元有の本質のうちへゆだねて固有化するときだけであり、またそのときにはじめてである。

 ★その「はじめ」からのハイデガーの思索は「存在と時間」の頃から恐らく死ぬ時まで持続している。その思索を継続し深めるのが後に続く者たちの責務である。死とは非在となることであり残された者にとっては不在でもある。K先生の奥様にとっては先生は非在であることが信じられずヒョイと現れそうに思えるとおっしゃっておられた。奥様にとっては先生は臨在でもあるのだ。

 >死とは、世界という詩のなかで元有を守蔵する山脈にほかならない。死をその本質において能しとするとは、死ぬことができるということである。死ぬことができる人々こそが、「死すべきものども」というふうに、この語の含みに見合った意味において、はじめてそう呼ばれるのである。無数の恐るべき、死ともいえぬ死の遍在から大量の困窮がこだましてくる-にもかかわらず、死の本質は人間に立てふさがれてしまっている。人間はいまだ死すべきものになっていない。

 ★人間が「死すべきもの」になるのは何時なのだろうか。それはニーチェの超人と末人の思索がハイデガーの断言と呼応している。

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