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2011年3月 6日 (日)

これは映画ではない

 NHKのETV特集選で1月に放送された番組の再放送で「枯葉剤の傷痕を見つめて」を見た。そこには米国という国家が犯した償いがたい事実が苛酷な映像で表出されている。ヴェトナム人の第二世代の子供の惨状は、これを地獄と言わずして何であろう。それは映画で作品化される映像を超える現実だ。それにしても驚くのは健常者として生まれた兄弟姉妹が障害児と戯れる姿だ。それと両親たちの姿はアジア的な人間の姿だ。声高に敵国を罵るのではなく現実を受け入れ嗚咽し号泣する。その姿にアカショウビンは保田與重郎が依拠し説く、西洋と対立するアジアの同胞を見る思いがした。それは稲作文化で穏やかに生きている人々が西洋の野蛮と暴力と欲望で犯された姿である。番組は枯葉剤による二世代被害者の女性を追う日本人女性の行動を通して構成されている。そこでは米国人も被害者なのだという。それはアカショウビンからすれば偽善の如き構成である。

 この映像が告発すべき主題は、かつてチョムスキーが「9.11 アメリカに報復する資格はない!」(2001年11月30日 文藝春秋)で指摘した米国という暴力国家の畏怖する国家犯罪である。チョムスキーはヴェトナム戦争を米国人として考察するうえでその判断に到達したのだ。それは国家論としてより人間の持つ、仏教を介して考えれば業のようなものであろうが、その酷薄さは人語を絶している。しかし米国という国家が自由と正義を掲げた正当性を主張しても、それはナチズムの犯した罪と同列に告発されねばならない。

 米国政府はクリントンが保障・支援を表明し拍手を受ける姿が映される。それは、それで果たして済むことなのか?キリスト者としてそれは許されることなのか?神は米国という国家を許すのだろうか?私たちは日本人として米国が落とした2発の原爆を国は容認しても一人の国民として許さない。同様にヴェトナム人たちも日本人も米国というナチスドイツと同じように国家的犯罪で子孫達に与えた罪を許すべきではない。私たちはアメリカという国が人間の歴史の中で犯した償い難い罪を世界に告発すべきである。

 枯葉剤で12歳の時に失明したヴェトナム人の若者がベートーヴェンが耳が聞こえなくなってからも作品を書き続けた、という話を聞き、生きる力を得たと話す。そして彼がヴェトナムの伝統楽器で奏でる「アメイジング・グレイス」に米国の同じ障害者である女性が和する。その姿に幾らかの希望を看取した。しかし彼らの日常と現実は苛烈な生きるための闘いである。希望は苛酷な現実との相克から見い出される。それを実現するのも人の意志だ。

 哲学・思想的に、この歴史事実を捉え直すとすれば、人間という不気味さの極北とも言うべき事実を踏まえて地球という宇宙の片隅の惑星で繰り広げられた事実を思索し熟考することだ。そして未来の人々に向けてニーチェの超人・末人という概念を追想し考察していくことだ。

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