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2011年2月23日 (水)

薄かった命

 先日、かつて一緒に仕事をした女性が亡くなったことをお母様からの手紙で知った。寿命とはいえ30数年の人生だった。一人娘で既に学生時代に父親を亡くしていてお母様は夫と娘を亡くしさぞや気を落とされていることだろう。心中察するに余りある。

 高校時代に劇症肝炎に罹患し休学したと話していた。亡くなられた父親は高校教師で子供の頃から躾は厳しく食事のテーブルには広辞苑が置かれ分からない言葉は直ぐに引いて調べさせられたと話していた。大変な読書家で池波正太郎のファンで都内の名店をよく知っていた。アカショウビンも会社から近い有名蕎麦屋を紹介してもらった。

 劇症肝炎のせいだろう、美人だが異常に痩せていた。よく食べていたのも少しでも太るためだったのかもしれない。高校の同級生が在日韓国人で韓国語に興味をもち学生時代は韓国に留学もし東大の大学院時代は姜 尚中さんの研究所で韓国文化もよく勉強したようだ。亡くなる前には20世紀の朝鮮半島の歴史書の編集に加わることも決まっていたとお母様の手紙には書かれていた。何とも惜しい早すぎる死だった。クリスチャンだったから天の国に召されたことだろう。それにしても神は何と酷い業を為されることか。

 亡くなる少し前に電話で話した。おっとりした明るい声で電話の向こうの澄んだ瞳が想像できた。それから暫くしてお母様から入院したと電話があった。そうとう厳しい症状らしく危険な状態であることが声から知られた。退院できただろうかと携帯に電話すると使用されていないというアナウンスだった。嫌な予感がした。先日、お母様からの手紙で亡くなったことを知ったのである。

 彼女の人生は短くあはれとしか言いようがない。カトリックでは神に召命されたのだろうが仏教ではどう説明してるのだろう。業かも知れない。カトリックでは生まれ変わりということはないだろう。仏教徒の端くれであるアカショウビンも生まれ変わりがあるのかどうか思想的に了解しているわけでもない。彼女も決して筋金入りのクリスチャンというわけでもなかった。しかし熱心な信仰者であられたと推察するお母様からすれば天国であの天真爛漫な笑顔で楽しく暮していると信じているものと思われる。アカショウビンのような死に損ないが生き残り、若く才能ある女性が先に逝く。人生、誠に無情で無常である。そして迅速である。娑婆での生は長いようで短く、また短いようで長くもあるだろう。ニーチェの思考、考察では等しきものの永遠回帰という思索がアカショウビンには親近感を持つ思想である。それにしてもハイデガーの如く対決したうえでのものではない。しかしツァラトゥストラを介したニーチェの一行一行は鮮烈だ。母親のように敬虔ではなかったかもしれない彼女の考え残し読み残した聖書を久しぶりに読み若くして逝った才女の死を弔いたい。

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