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2011年2月27日 (日)

死の考察

 最近、新聞の将棋・囲碁欄にさえ眼を通す気力に欠けている。はなはだ良ろしくない精神状態である。きのうは眼が痒く、クシャミ、鼻水が止まらなくなった。スギ花粉の襲来である。来るものは来るのである。最悪だと5月の初旬まで実に疎ましい心身状態に支配される。これは経験した者でないとわからないだろう。しかし病とは上手く付き合うしかない。

 先に引いたハイデガーの死に対する考察は当時の中国や戦時中のアウシュビッツの無残な死に対するものである。先日のニュージーランドの地震による痛ましい死は中国での飢饉による死とも異なるように思う。

 死は人間という存在にとって何なのだろうか

 >だが、死ぬとは、死をはらんでその本質まで耐え抜くことである。死ぬことができるとは、このはらんで耐え抜くことを能くする、ということである。われわれがこのことを能くするのは、われわれの本質が死の本質をよしとするときだけである。

 ★死の本質をよしとするときだけである、とはどういう「とき」なのだろうか?母やK先生、若くして人生を終えた同僚は「死の本質をよしとして」果てたのだろうか?ここにはハイデガーが人間は死を「先駆的に覚悟する」生き物であると捉えた独特の思索がある。当時のドイツという国家が存続していくためにナチズムに加担し試行錯誤するハイデガーの思索が色濃く反映している。我が日本でも保田與重郎の思索が共時的にか反響している。

 >しかしながら、数えきれないほどの死のただなかでは、死の本質は立てふさがれたままである。死は、空無でもなければ、有るものが別の有るものへ変わってゆくだけの移行でもない。

 ★これはハイデガーの思索と道元の思索が時代を超えて音叉のように共鳴している一文である。

 >死は、元有の本質から出来事として本有化される人間の現有に属する。このように死は元有の本質を守蔵している。死とは、元有それ自身の真理を守蔵する最高峰の山脈である。この山脈は、元有の本質の隠されたありさまを内部に守蔵し、この本質の守蔵を集成する。それゆえ、人間が死を能くするのは、元有それ自身がその本質の真理にもとづいて、人間の本質を元有の本質のうちへゆだねて固有化するときだけであり、またそのときにはじめてである。

 ★これは我が母の死にゆく姿を見て眼底に焼き付けた。

 >死とは、世界という詩のなかで元有を守蔵する山脈にほかならない。死をその本質において能しとするとは、死ぬことができるということである。死ぬことができる人々こそが、「死すべきものども」というふうに、この語の含みに見合った意味において、はじめてそう呼ばれるのである。無数の恐るべき、死ともいえぬ死の遍在から大量の困窮がこだましてくる-にもかかわらず、死の本質は人間に立てふさがれてしまっている。人間はいまだ死すべきものになっていない。

 ★このハイデガーの洞察とも読める考察は一歩を進めて思索しなければならない。 それはK先生の死や若いかつての同僚の死、ニュージーランドで死んだ人々の死、我が父母、近親の死、自らの死をも射程に入れて考察し腑に落とさなければならないことだろうからである。

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