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2011年2月21日 (月)

みやらびあはれ再考

 人の生をどのように捉えるかというのは永遠の課題であろう。しかし人という生き物は生と死に或る意味で過剰な関心をもつ生き物だ。ニーチェは、超人・末人という存在を「ツァラトゥストラ」(中公文庫 手塚富雄訳)で生み出した。神が死んだあとに人間が成り至るべき存在とはニーチェにとって雷鳴の如く襲ってきたのだ。

 保田與重郎の「みやらびあはれ」が腑に落ちたと書いたひとつの理由は次のような保田の記述にアカショウビンは共振、共鳴するからである。

 私はこの一年農耕生活にあらましなじみ、山河の自然や、植物や、昆虫の性質について、僅少ながらも経験するところがあった。我々の身体の機構の中にあって、植物性と云はれてゐるもの、植物性の神経などいふもののことだが、それこそ最も深い疑問と神秘な興味を次々に興へつつ、あげくとしては、ありのままとして承知せねばならぬものであらう。ありのままに於いて、実に巧緻微妙を極めるものである。動物の最も発生的なものと、植物の最も進化したものとの二つを並べての判断も、その説を云ふ人々にはあることと思ふ。

 (中略)

 しかし私は各分野の種の最高のものの卓立する状態を考へ、さういふ自然界の多様に円熟したありの儘を、根底事実と考へるのである。

 ここに於いても私は十九世紀的思考法に対立し、所謂近代を否定するわけである。(新学社 保田與重郎文庫15 「日本に祈る」所収 みやらびあはれ p21 原文の表記とは異なる箇所があるが、いずれ修正する)

 保田が否定する「近代」とニーチェの思考、思想、思索は恐らく共鳴している。その径庭を辿ることは一歩を進める面白さと不安にも苛まれるような細い道である。しかし、そこに踏み込まなければニーチェと正面、対面することもできないだろう。

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