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2011年1月18日 (火)

日々雑感

 アカショウビンが友人の縁で参加し書き込みしているミクシイというSNSにはピンキリのコミュニティがある。「存在と時間」を原書で読み解くマニアックなものから少年・少女のおしゃべりまで。そこでアカショウビンのアンテナを刺激したのが以下の「つぶやき」である。正月ボケで惰性のように仕事に忙殺されている日常に活を入れるべく考察してみよう。

 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という孫引きの引用があった。それはハイデガーが「形而上学入門」(1994年 平凡社ライブラリー)の冒頭で引用しているライプニッツの引用であり、ハイデガー哲学の基調低音の如きものだ。アカショウビンもハイデガーを読み続ける中でハイデガーの回答を通じて「存在」の理解を模索してるのだが問い自体がハイデガーが同書で述べているように「根本の問い」であり、こちらの思考能力を超えるものである。しかし、その問いの牽引力には抗い難い。それはアカショウビンの生の根本に食い入り支配していると言っても決して過言ではない。 ハイデガーと実際に接したカール・レーヴィットは「ナチズムと私の生活 仙台からの告発」(1990年 法政大学出版局)でハイデガーという人物を活写している。それはアンビバレンツというしかない複雑な印象と感想である。それはともかく、ミクシイの「つぶやき」にコメントしてみよう。そこには次の引用もある。

 >世界はどのように(wie)あるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということ(daB)が神秘的なのである。

 ★これはウィトゲンシュタインの引用だ。英国人はドイツ語を介して「存在」を考察している。それはハイデガーの思索と精妙に呼応している。それは西洋哲学の根幹に関わる問いと言ってもよろしかろう。その問いは西洋に限定されるものではなく、私たちアジアの島国に棲む者にとって仏教哲学や神道を介して木霊する問いである。

 >私には、自分自身について思うことが、とくに還暦を超えたあたりから揺るぎなく思うことがある。第一に「感情の核心は幼少期に創られる」ということ…第ニに「感情の核心が論理の在り方を定める」。…納得できる前提・枠組・方向だけが選び採られるのだが、納得とは、その人の感情の核心と呼応するということなのである。

 ★これはかつての学生運動家で今や評論家としてテレビにもたまに出てくる人の著作からの引用である。この断定には異論がある。感情は果たして創られるものなのか?字句にこだわるようだが、それは哲学用語を用いれば「形成」されるものであろう。両親を介して生まれ落ちた赤子は起源まで辿れば決して「創られた」者ではない。それはキリスト教の造物主という概念への疑念である。それはハイデガーが試みた西洋近代哲学への疑義とも通底する。

 >今週は寝るとき開高健『人とこの世界』を読み継いでいる。開高が、気取っているようにみえてじゅうぶんに呻吟するのは、これらの傑出した個性とぶつかり、寄り添っているからであり、おのおのの相手により開高が相対化もされることによって、あらためて開高が追いつめられるようにしてすべてさらけだす

 ★開高はアカショウビンが高校生の頃から愛読した作家である。開高の「気取り」というのは読者には阿吽の呼吸で伝わるものと察する。「追いつめられてさらけだす」。ひとりのしがない作家が時の学者、思想家、文人たちとサシで話すうちに自分を曝け出し対面する緊張と緩和は落語家の緊張と緩和とも呼応していると思われる。開高は久しく読んでいない。

 >つまり、何かと何かを結びつけることが宗教の本質です。神と人間を結びつける、超越的なるものと自然を結びつける、そして「見えない世界」と「見える世界」を結びつける、そのような機能をレリジョンというわけです。

 ★これも最近、売り出し中の「評論家」の著作からの引用である。しかしこのような「本質」はハイデガーくらいの思索を経てから発してもらいたい断定である。それが宗教の「本質」と言うなら、そんな残薄で皮相な定義はない。それは恐らくロシア正教を介したものであることは憶測するのだが。

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