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2011年1月23日 (日)

等しきものの永遠回帰という思想

 ハイデガーやヤスパース、それに恐らくヒトラーやナチズムの同調者たち、それに自らの心身を介して違和を発し続けたユダヤ人のカール・レーヴィットらフッサールの弟子たちが辿った思想的営為と結末は現在のドイツでどのように継承されているのか詳らかにしないが政治的にも哲学的にも文化的にもニーチェの「等しきものの永遠回帰」というやっかいな思想への回答は洋の東西を問わず突きつけられている難問である。カント以降の近代西洋哲学、キリスト教思想への根底的な批判をハイデガーは試みた。自らの哲学と切っても切れない現実と了解しナチスやナチズムと関わった「世界的な」哲学者の始末は未だに終えているとは思えない。少なくともアカショウビンには。東洋の島国に棲息するアカショウビンが同時代の世界史として日本という東洋の島国までが同時代で関係を持ったユダヤ人という人々の出自が問われる西洋の歴史の不可解さは、日本にも「等しきもの」のようなものとして推測できる事柄は散見できる。それは在日韓国人やアイヌ、琉球、部落差別という現実で通底しているとも思われる。しかし、そこで決定的に欠けていることはユダヤ教、キリスト教文明という、この2千年余の西欧というローカルな地での宗教、思想が世界の将来を支配し暴力的あるいは偽善と福音というアマルガムの如き力で世界を席巻してきたという事実のなかで世界へ散らばっていったユダヤ教、キリスト教の呪縛のなかで生き延びる運命を負ったユダヤ人たちの生き様である。古代日本に民族の原型と理想を託し生を全うした保田與重郎や最終的には本居宣長を介し源氏や国学を介して生を終えた小林秀雄の仕事ともアカショウビン中では共振するのである。それは不可解だと済ますわけにはいかない。

 1877年に当時のドイツという国を論評したドストエフスキーの文言が先のカール・レーヴィットの著作の結語になっている。それは自らが生まれ育ち終には見捨てられた祖国へのアンビバレンツである。その苦渋は世界を彷徨い日本にも数年滞在した、さまよえるユダヤ人の鋭い論説として著作の中には横溢している。その苦渋は果たして日本人や米国人、中国人、インド人、アフリカ人たち無数の民族たちにも照りかえってくる本質を有するのではないのかあるのか。それが有るとすれば、仏教的な文化に染めあげられたと一応は了解できるアジアや中国人、日本人からすれば虚実皮膜の領域へ踏み込むこととも言える。それは近代という時代区分が齎した、ハイデガーの顰に倣えば、この惑星の人間共の栄枯盛衰と出来事である。その帰結には重大な関心を持たざるをえない。それは現在を生きるアカショウビンにも時の為政者たちにも他人事ではすまない本質的な問いを孕むものと了解する。

 昨今の我が国の現状は石原慎太郎ならずとも中高年にはつい舌打ちしたくなるところである。しかし小説家あがりの政治屋の駄言と暴言にはうんざりだ。「新たなビジョン」を提示できない現政権と国会の茶番を望見しながら秋葉原を席巻している「アニメ文化」に群がる若者たちの姿を冷徹に視れば「日本人の幼児化」という言説が或る可能性を開く試金石となるように解する。しかし肉体的疲弊と経済的困窮で窒息しそうなアカショウビンの日常でハイデガーが説く<世界>に投げ込まれた一人の人間として、その<世界>への関心はヨロヨロ、ヘロヘロとなりながらも生き続けるヨスガの如きものである。風邪がなかなか抜けきらない憔悴した体調で死は突然訪れるものであるやも知れない。しかし娑婆での生の諒解は済ませて彼岸に赴きたいと切に思うのである。

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