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2010年12月31日 (金)

去年今年貫く棒の如きもの

 門松は正しく冥土の旅の一里塚である。それは日本人が歴史から達観した此の世への認識とでも云うべきものだ。もちろん、それは世界の常識ではない。しかし達観という境地がある。アカショウビンのように生活に汲々として毎日を凌いでいる者にとって、それは遥かな高みにあると言うしかない。晦日、正月の暫しの休日が得られるだけでも幸いとしなければならぬ。メメントモリ、臨終ただ今にあり、である。

 大晦日の頃になると虚子の句を思い起こす。貫く棒とは何なのか?それは「生活」の困苦というものなのか。思想・信条というものなのか。今年は再度の引っ越しや再就職で慌しく過ぎつつある。本やCDは幾らも読めず聴けなかった。来年は如何なる年になるか? 下手の考え休むに似たる、だが性懲りもなくカタツムリのように、ナマケモノのように、亀のように、娑婆での思考、思索を継続しよう。

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