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2010年11月20日 (土)

リヒテルのシューベルト

 ネットを彷徨っていると、小林秀雄がリヒテルの来日公演でシューベルトのD960のピアノ・ソナタを聴いたときに、これは西行の「ねがわくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」の歌の心境で書かれた作品だと書いているらしい。全集にそれは収載されているのか不明。いずれ調べてみよう。そこで1961年11月の録音を聴き直した。なるほど小林の直感と感想は何とも小林らしい。小林は保田與重郎が生涯そうであったように戦中は自国の古典を昧読した。中国戦線には雑誌社の特派員として赴いた。そこから新たな思索に浸ったのか文壇から距離をおき殆ど沈黙していった。戦争体制を生きるなかで国の古典に没頭していったのであろう。多くの学徒兵がそうであったように。先に引用した朝日新聞の一文を読むとそう思う。戦中はラジオやレコードで音楽への餓えを癒したと思われる。戦後に出版した『モーツァルト』は、その体験と思索を明らかにしている。一人の国民として敗戦を通過し保田とは異なり文壇に復帰し再評価され長寿をまっとうした。仕事の合間には複製音楽で満足できない餓えをメニューヒンはじめ来日演奏家のリサイタルを貪るように聴き精神の餓えを補ったのであろう。

 以前にも書いたがリヒテルのシューベルトには格別の深さがある。それをアカショウビンが聴き取り腑に落ちたのは1978年に録音されたD894の「幻想」を聴いたときだった。他のピアニストの演奏を聴けば異常とも思えるテンポの中にシユーベルトという若くして死んだ天才の孤独と憂愁と深淵が音として表出されている。その深さを音として表現するには天賦の才が必要だ。リヒテルの音にそれを聴き取る。それは現存のもっとも優れたピアニストと思われる内田光子も田部京子でさえ及びつかない境地と言ってもよい。リヒテルという稀有のピアニストの音には存在の不可思議さとでもいうしかない響きがある。

 最近、仕事に忙殺されて映画や音楽に浸る時間がとれなかった。ネットの一文のおかげで久しぶりにリヒテルを聴けた。新聞では海外のコンクールで日本女性が優勝した報も伝えられている。消耗し娑婆を生きるなかで小林でなくとも音楽の力に浸ることなくして生きられない。

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