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2010年10月30日 (土)

音楽の力とは?

 何度書いても書き尽くせないのが音楽を聴いて、それを文字にすることだ。ネットを彷徨っていたら以下のブログの文章に遭遇した。引用されている一文が全集の中に収載されているかどうか不明。しかし、一人の音楽好きの一端が明らかになっている。失礼して転載させて頂く。この一文を介して小林秀雄という稀有の批評家の姿を垣間見る思いがする。 

 昭和二十六年の秋、ユーディ・メニューインは、戦後初の大物演奏家として初めて日本を訪れた。ヴァイオリニストとしては、昭和十二年一月に訪れたミッシャ・エルマン以来、実に十四年ぶりの出来事であった。彼を招聘した朝日新聞の当時の記事を追っていくと、来日決定を知らせる第一報が昭和二十六年二月十八日の朝刊に出て以降、九月十六日の羽田到着まで、再三にわたって、メニューインの近況を知らせる記事や、彼から寄せられたメッセージなどが伝えられており、主催者側の報道とはいえ、日本の聴衆が如何にその来日を心待ちにしていたのかが、手に取るように伝わってくる。七月三十一日に発売されたチケットは一時間半で売り切れ、当初、全国十都市、計二十回予定されていた独奏会に加えて、協奏曲の公演が三回、独奏会が三回追加された。来日直前には、音楽誌が丸々一冊メニューインの特集を組み、彼の演奏を撮影したドキュメント映画が上映され、日本橋三越では写真展まで開かれている。

 正確を期せば、戦後日本を訪れた演奏家第一号は、その前年の十月に来日したラザール・レヴィというフランス人ピアニストであったが、戦前から、ビクターの赤盤で日本の音楽ファンに広く親しまれていた嘗ての天才少年の来日は、長らく鎖国状態にあった日本の音楽界の、真の開国を告げるものであったと同時に、戦後日本の復興そのものを象徴する社会的事件として受け止められたのである。サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が主権回復に向けて第一歩を踏み出したのは、メニューインが到着する一週間ほど前のことであった。

 記念すべき第一日目の演奏会は、九月十八日、午後七時から、東京の日比谷公会堂で行われた。二階席正面最前列には、来賓のリッジウェイGHQ総司令官夫妻、吉田茂首相夫妻、田中耕太郎最高裁判所長官夫妻などの姿があった。内幸町の旧NHKホールでさえ、まだなかった頃のことで、もともと音響効果のおそろしく悪いホールである上に、数日前から秋雨が降り続き、クロークもなく換気設備も不十分な場内は、蒸しブロのような人いきれと湿気だったという。

 しかし、「会場にあふれる聴衆は熱狂していた」。以下は、この日の演奏会を聴いた小林秀雄が、翌朝の朝日新聞に寄せた文章の全文である。

 会場にあふれる聴衆は熱狂していた。久しい間、実に久しい間、わが国の音楽好きな人達は、ヴァイオリンの本当の音色というものを聞かずに暮らしていたのである。これは、恐らくメニューヒン氏には想像も出来ない事であろう。

 第一日目の演奏会を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きっと感動してしまって何も言う事がなくなるだろうと考えていた。その通りになった。タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処へやらけし飛んで、私はふるえたり涙が出たりした。魂を悪魔に渡してから音楽を聞くということもある。タルティニは嘘をついたのじゃあるまい。ただ、私は夢の中で、はっきり覚めていた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴盤を、ひたすら追っていた。ああ、なんという音だ。私は、どんなに餓えていたかをはっきり知った。

 メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する。

(「メニューヒンを聴いて」)

 前夜、生の演奏を聴くのは何年ぶりのことかと、興奮しながら出掛けて行った両親を見送った明子さんは、翌朝、父親の書いたこの文章を読み、どうしても自分もとせがんで聴きに行ったそうである。当時十四歳だった彼女が、父・小林秀雄の文章を読んだのも、これが、おそらく初めてだったという。

 本居宣長にとっての桜がそうであったように、小林秀雄は、ヴァイオリンという楽器と「契り」を結んだ人であった。彼の宣長論に倣って言えば、「その愛着には、何か異常なものがあった」(「本居宣長(一)」)と書いてもいいだろう。それは、愛着である以上、「異常」でないようなものは存在しない、という意味でもある。昭和二十六年の秋、メニューインが携えてきた一七一四年製のストラディヴァリウス「Soil」によって、小林秀雄は、長年恋焦がれた相手と、十四年ぶりに再会したのである。そのことを、彼は、メニューインに心から感謝する。この一文は、小林秀雄にとって、言わば、宣長が寝覚めの床でひとり詠み綴った、あの「まくらの山」の一首であった。

 此の花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

 それから三十年経った昭和五十七年の暮れ、明子さんは、メニューインのテレビ放送のことを母に一言告げて、両親の家をあとにした。その晩、喜代美夫人は、「メニューヒンがありますから、聞きながらお休みなさい」と言って、二階の寝室のドアを開けておいたという。すると、上で休んでいた小林秀雄は、いつの間にか食堂まで降りて来て、妻と一緒に、その放送を最後まで聴いたのだった。翌朝、夫人は娘に電話をかけ、「一緒に聞いたわよ」と、涙声で報告したという。

 年が明けた昭和五十八年一月十三日、小林秀雄は風邪をこじらせて再び入院し、そのまま、三月一日に帰らぬ人となった。この放送が、彼の聴いた、おそらく、最後の音楽であっただろう。それは、昭和五十七年十二月二十八日の火曜日、午後八時から、NHK教育テレビで放送された、「巨匠メニューイン」という一時間半の番組で、同年十一月十七日に昭和女子大学人見記念講堂で行われた、メニューイン三度目の来日公演の録画であった。伴奏はポール・コーカー、曲は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、そして最後に演奏されたのは、フランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタであった。この三曲は、すべて、三十年前の東京公演でも取り上げられたもので、中でもフランクは、小林秀雄が「あなたに感謝する」と書いた、初日のコンサートで演奏された曲目である。そのことを、彼は、思い出していただろうか。あるいは、この時も、「バッハだろうが、フランクだろうが、それはどうでもよい」と思いながら、ブラウン管に映し出されるストラディヴァリウスの共鳴盤をひたすら追って、満ち足りていたのだろうか。明子さんは、その夜の感想を、気軽に父に聞くことは出来なかった、と書いている。

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