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2010年10月18日 (月)

吉本隆明の現在

 吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)が「吉本隆明全詩集」の末尾に『言葉からの触手』として書いているものをネットで見つけたので引用し考察していきたい。とりあえず引用のみ。後日、原文と照らし合わせてみる。今や老境にある氏の現在を憶測しながら吉本隆明の思索を熟考してみなければならない。改行はアカショウビン。

「筆記 凝視 病態」  

たぶん現在は、書かれなくてもいいのに書かれ、書かれなくてもいいことが書かれ、書けば疲労するだけで、無益なのに書かれている。これが言葉の概念に封じ込められた生命を、そこなわないで済むなどとは信じられない。現在のなかに枯草のように乾いた渇望がひろがって、病態をつくっている。だがそれは個体が生きている輪郭といっしょに死滅してしまう。ほんとにそこなわれた概念の生命は、個々の生の輪郭をこえて、文字を媒介に蔓延してゆくだろう。想定できるいちばんひどい損傷は、やがて文字と概念のむすびつきがこわされてしまうことだ。たとえば生命という文字のかたちが[生命]という概念とむすびつく必然はなにもない。そうおもえるようになったとき、じっと眺めているとどんな文字でもそれがそんな恰好なのはへんだとおもえてくる。視線が文字の形をとおりぬけてしまう病態は、どこまでも蔓延してゆくにちがいない。そのときには、文字とその像とをじかに対応させるシステムをつくりあげているほかない。つまり概念に封じ込まれた生命が萎縮し、破棄されたあとは、文字がじかに対応する像とむすびつかなければ生きのびられない。文字の像が意味をなくして網膜上に氾濫するところを想像してみる。そして概念はもう生命をつくれなくなっている。批評はそのとき文字をたどりながら、意味ではなくて無意識にできあがった文字自体の像を語らなくてはならない。

 ひとつの文字、それから組みあげられた語を、じっとみつめているとへんな感じにおそわれて、その文字、その語がそんな視覚的なかたちをもち、そんな意味をもつことが疑わしい気分になってくる。だれでもがどこかで、何度か出遇ったことがあるそんな体験には、普遍的な意味がある気がする。わたしたちが植物みたいだったとき、どんなかたちも、かたちの内在性であり、かたちとしてはみえなかった。わたしたちが動物になったとき、あらゆるかたちは、かたちの視覚像だったが、かたちには[意味]がなかった。わたしたちが人間になったときはじめて、あらゆるかたちは、かたちの像(イメージ)としてみることができた。それといっしょに、かたちの理念としてつかまえることができるようになった。じっと文字や文字を組みあげた語を眺めていると、その文字がそのかたちであることが不思議でならないとか、その語がその[意味]であることになんの必然もないと感じられてくる。そんな奇妙な不安を体験するとき、その体験は文字の誕生までにいたる[概念]の、ながいながい胎児期を反芻していることになっている。人間の胎児体験がぼんやりとした無意識の理念化であるように[概念]の胎児体験もまた、ぼんやりとした視覚像の理念化であるといえる。

 [概念]はそこに封じこまれた生命の理念としては最高度な段階にあるはずなのに、どうして生きいきしていない抽象や、鮮やかでない形象の干物みたいにしか感じられないのか。これにたいする解答のひとつは、はじめにあげたように、書くという行為とその結果のもたらしたデカダンスが、感受性の全体を摩耗させてしまったということだ。あえてしかめつらしい言い方をすれば、自然としての生命と、理念としての生命の差異をひろげてしまったのだ。その意味では最初の原因は、文字の誕生のときすでにあった。文字が誕生してからあと、わたしたち人間は理念の生命を原料に、[概念]をまるで産業のように、大規模に製造できるようになったのだ。文字による語の大量生産体制の出現は、ひろがってゆく一方の過剰生産の系列をうみだした。それは必然的に[概念]のなかに封じこまれた生命の貧困化を代償にするほか、源泉はどこにもなかった。現在ではほとんどすべての文字、それを組み上げた語は、自然としての生命などを土壌に使わずに、人工的に培養しているといったほうがいい。


 

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