« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月31日 (日)

私たちが胚胎する病根

 先に引用した吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)の論説の中で以下の箇所は同意だ。

 >文字が誕生してからあと、わたしたち人間は理念の生命を原料に、[概念]をまるで産業のように、大規模に製造できるようになったのだ。文字による語の大量生産体制の出現は、ひろがってゆく一方の過剰生産の系列をうみだした。それは必然的に[概念]のなかに封じこまれた生命の貧困化を代償にするほか、源泉はどこにもなかった。現在ではほとんどすべての文字、それを組み上げた語は、自然としての生命などを土壌に使わずに、人工的に培養しているといったほうがいい。

 ★「文字による語の大量生産」は産業社会の進展によるモノの大量生産と並行している。そこに私たち現在を生きる者が遭遇し、「理性」では捉えきれない不可解なものにとりこまれている、といった不安の原因があると思われる。産業社会の進展による「便利」さのなかに生きる私たちはガン細胞のような病根を日々の生活のなかに胚胎しているのではないか。その前のところで吉本が言う、人間が植物的な段階にあるとき、の記憶は動物になり、人間となってもヒトという生き物は、その病根と病理を抱え生きる「宿命」を負っている、ということだろう。では、その治療法は?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月30日 (土)

音楽の力とは?

 何度書いても書き尽くせないのが音楽を聴いて、それを文字にすることだ。ネットを彷徨っていたら以下のブログの文章に遭遇した。引用されている一文が全集の中に収載されているかどうか不明。しかし、一人の音楽好きの一端が明らかになっている。失礼して転載させて頂く。この一文を介して小林秀雄という稀有の批評家の姿を垣間見る思いがする。 

 昭和二十六年の秋、ユーディ・メニューインは、戦後初の大物演奏家として初めて日本を訪れた。ヴァイオリニストとしては、昭和十二年一月に訪れたミッシャ・エルマン以来、実に十四年ぶりの出来事であった。彼を招聘した朝日新聞の当時の記事を追っていくと、来日決定を知らせる第一報が昭和二十六年二月十八日の朝刊に出て以降、九月十六日の羽田到着まで、再三にわたって、メニューインの近況を知らせる記事や、彼から寄せられたメッセージなどが伝えられており、主催者側の報道とはいえ、日本の聴衆が如何にその来日を心待ちにしていたのかが、手に取るように伝わってくる。七月三十一日に発売されたチケットは一時間半で売り切れ、当初、全国十都市、計二十回予定されていた独奏会に加えて、協奏曲の公演が三回、独奏会が三回追加された。来日直前には、音楽誌が丸々一冊メニューインの特集を組み、彼の演奏を撮影したドキュメント映画が上映され、日本橋三越では写真展まで開かれている。

 正確を期せば、戦後日本を訪れた演奏家第一号は、その前年の十月に来日したラザール・レヴィというフランス人ピアニストであったが、戦前から、ビクターの赤盤で日本の音楽ファンに広く親しまれていた嘗ての天才少年の来日は、長らく鎖国状態にあった日本の音楽界の、真の開国を告げるものであったと同時に、戦後日本の復興そのものを象徴する社会的事件として受け止められたのである。サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が主権回復に向けて第一歩を踏み出したのは、メニューインが到着する一週間ほど前のことであった。

 記念すべき第一日目の演奏会は、九月十八日、午後七時から、東京の日比谷公会堂で行われた。二階席正面最前列には、来賓のリッジウェイGHQ総司令官夫妻、吉田茂首相夫妻、田中耕太郎最高裁判所長官夫妻などの姿があった。内幸町の旧NHKホールでさえ、まだなかった頃のことで、もともと音響効果のおそろしく悪いホールである上に、数日前から秋雨が降り続き、クロークもなく換気設備も不十分な場内は、蒸しブロのような人いきれと湿気だったという。

 しかし、「会場にあふれる聴衆は熱狂していた」。以下は、この日の演奏会を聴いた小林秀雄が、翌朝の朝日新聞に寄せた文章の全文である。

 会場にあふれる聴衆は熱狂していた。久しい間、実に久しい間、わが国の音楽好きな人達は、ヴァイオリンの本当の音色というものを聞かずに暮らしていたのである。これは、恐らくメニューヒン氏には想像も出来ない事であろう。

 第一日目の演奏会を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きっと感動してしまって何も言う事がなくなるだろうと考えていた。その通りになった。タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処へやらけし飛んで、私はふるえたり涙が出たりした。魂を悪魔に渡してから音楽を聞くということもある。タルティニは嘘をついたのじゃあるまい。ただ、私は夢の中で、はっきり覚めていた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴盤を、ひたすら追っていた。ああ、なんという音だ。私は、どんなに餓えていたかをはっきり知った。

 メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する。

(「メニューヒンを聴いて」)

 前夜、生の演奏を聴くのは何年ぶりのことかと、興奮しながら出掛けて行った両親を見送った明子さんは、翌朝、父親の書いたこの文章を読み、どうしても自分もとせがんで聴きに行ったそうである。当時十四歳だった彼女が、父・小林秀雄の文章を読んだのも、これが、おそらく初めてだったという。

 本居宣長にとっての桜がそうであったように、小林秀雄は、ヴァイオリンという楽器と「契り」を結んだ人であった。彼の宣長論に倣って言えば、「その愛着には、何か異常なものがあった」(「本居宣長(一)」)と書いてもいいだろう。それは、愛着である以上、「異常」でないようなものは存在しない、という意味でもある。昭和二十六年の秋、メニューインが携えてきた一七一四年製のストラディヴァリウス「Soil」によって、小林秀雄は、長年恋焦がれた相手と、十四年ぶりに再会したのである。そのことを、彼は、メニューインに心から感謝する。この一文は、小林秀雄にとって、言わば、宣長が寝覚めの床でひとり詠み綴った、あの「まくらの山」の一首であった。

 此の花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

 それから三十年経った昭和五十七年の暮れ、明子さんは、メニューインのテレビ放送のことを母に一言告げて、両親の家をあとにした。その晩、喜代美夫人は、「メニューヒンがありますから、聞きながらお休みなさい」と言って、二階の寝室のドアを開けておいたという。すると、上で休んでいた小林秀雄は、いつの間にか食堂まで降りて来て、妻と一緒に、その放送を最後まで聴いたのだった。翌朝、夫人は娘に電話をかけ、「一緒に聞いたわよ」と、涙声で報告したという。

 年が明けた昭和五十八年一月十三日、小林秀雄は風邪をこじらせて再び入院し、そのまま、三月一日に帰らぬ人となった。この放送が、彼の聴いた、おそらく、最後の音楽であっただろう。それは、昭和五十七年十二月二十八日の火曜日、午後八時から、NHK教育テレビで放送された、「巨匠メニューイン」という一時間半の番組で、同年十一月十七日に昭和女子大学人見記念講堂で行われた、メニューイン三度目の来日公演の録画であった。伴奏はポール・コーカー、曲は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、そして最後に演奏されたのは、フランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタであった。この三曲は、すべて、三十年前の東京公演でも取り上げられたもので、中でもフランクは、小林秀雄が「あなたに感謝する」と書いた、初日のコンサートで演奏された曲目である。そのことを、彼は、思い出していただろうか。あるいは、この時も、「バッハだろうが、フランクだろうが、それはどうでもよい」と思いながら、ブラウン管に映し出されるストラディヴァリウスの共鳴盤をひたすら追って、満ち足りていたのだろうか。明子さんは、その夜の感想を、気軽に父に聞くことは出来なかった、と書いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月24日 (日)

同窓会

 昨日は高校の同期の連中で久しぶりの同窓会。入学以来40年ぶりに会う奴もいて楽しかった。人間、50年以上も生きていると紆余曲折さまざまな人生を歩んでいる。各自30秒の近況報告の中にそれが聞き取れた。既に鬼籍に入った者も数人いる。歳をとるごとに数も増えていくのは世の習いだ。

 老いとは経験の積み重ねを反芻し生き延びる智慧を搾り出すことである。しかし、それが難しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月18日 (月)

吉本隆明の現在

 吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)が「吉本隆明全詩集」の末尾に『言葉からの触手』として書いているものをネットで見つけたので引用し考察していきたい。とりあえず引用のみ。後日、原文と照らし合わせてみる。今や老境にある氏の現在を憶測しながら吉本隆明の思索を熟考してみなければならない。改行はアカショウビン。

「筆記 凝視 病態」  

たぶん現在は、書かれなくてもいいのに書かれ、書かれなくてもいいことが書かれ、書けば疲労するだけで、無益なのに書かれている。これが言葉の概念に封じ込められた生命を、そこなわないで済むなどとは信じられない。現在のなかに枯草のように乾いた渇望がひろがって、病態をつくっている。だがそれは個体が生きている輪郭といっしょに死滅してしまう。ほんとにそこなわれた概念の生命は、個々の生の輪郭をこえて、文字を媒介に蔓延してゆくだろう。想定できるいちばんひどい損傷は、やがて文字と概念のむすびつきがこわされてしまうことだ。たとえば生命という文字のかたちが[生命]という概念とむすびつく必然はなにもない。そうおもえるようになったとき、じっと眺めているとどんな文字でもそれがそんな恰好なのはへんだとおもえてくる。視線が文字の形をとおりぬけてしまう病態は、どこまでも蔓延してゆくにちがいない。そのときには、文字とその像とをじかに対応させるシステムをつくりあげているほかない。つまり概念に封じ込まれた生命が萎縮し、破棄されたあとは、文字がじかに対応する像とむすびつかなければ生きのびられない。文字の像が意味をなくして網膜上に氾濫するところを想像してみる。そして概念はもう生命をつくれなくなっている。批評はそのとき文字をたどりながら、意味ではなくて無意識にできあがった文字自体の像を語らなくてはならない。

 ひとつの文字、それから組みあげられた語を、じっとみつめているとへんな感じにおそわれて、その文字、その語がそんな視覚的なかたちをもち、そんな意味をもつことが疑わしい気分になってくる。だれでもがどこかで、何度か出遇ったことがあるそんな体験には、普遍的な意味がある気がする。わたしたちが植物みたいだったとき、どんなかたちも、かたちの内在性であり、かたちとしてはみえなかった。わたしたちが動物になったとき、あらゆるかたちは、かたちの視覚像だったが、かたちには[意味]がなかった。わたしたちが人間になったときはじめて、あらゆるかたちは、かたちの像(イメージ)としてみることができた。それといっしょに、かたちの理念としてつかまえることができるようになった。じっと文字や文字を組みあげた語を眺めていると、その文字がそのかたちであることが不思議でならないとか、その語がその[意味]であることになんの必然もないと感じられてくる。そんな奇妙な不安を体験するとき、その体験は文字の誕生までにいたる[概念]の、ながいながい胎児期を反芻していることになっている。人間の胎児体験がぼんやりとした無意識の理念化であるように[概念]の胎児体験もまた、ぼんやりとした視覚像の理念化であるといえる。

 [概念]はそこに封じこまれた生命の理念としては最高度な段階にあるはずなのに、どうして生きいきしていない抽象や、鮮やかでない形象の干物みたいにしか感じられないのか。これにたいする解答のひとつは、はじめにあげたように、書くという行為とその結果のもたらしたデカダンスが、感受性の全体を摩耗させてしまったということだ。あえてしかめつらしい言い方をすれば、自然としての生命と、理念としての生命の差異をひろげてしまったのだ。その意味では最初の原因は、文字の誕生のときすでにあった。文字が誕生してからあと、わたしたち人間は理念の生命を原料に、[概念]をまるで産業のように、大規模に製造できるようになったのだ。文字による語の大量生産体制の出現は、ひろがってゆく一方の過剰生産の系列をうみだした。それは必然的に[概念]のなかに封じこまれた生命の貧困化を代償にするほか、源泉はどこにもなかった。現在ではほとんどすべての文字、それを組み上げた語は、自然としての生命などを土壌に使わずに、人工的に培養しているといったほうがいい。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 6日 (水)

ささやかな奇遇と幸せ

 本日、仕事で長野県の飯田市での三日間の出張から帰宅。転職してから何と出張の多いこと。覚悟していたとはいえ、若い頃ならともかく中年のオッサンに疲れは溜まる。しかし役得もある。昨日はレンタカーでクライアント先を回っていると何と椋 鳩十記念館があるではないか。懐かしい名前である。小学生の頃に教科書か図書館でか作品を読んで覚えた作者の名前だった。その作品が何だったか。200円の入場料を払い入った記念館の展示品を辿っても、これかというものは見つけられなかったが、写真で温厚なお姿と向き合い子供時代の良き読書の機会を与えてくれた作者に感謝した。

 氏は飯田市近くの喬木村阿島で生まれ、長野県立飯田中学を経て法政大学を卒業。その後は代用教員として種子島で暮した、という経歴は記念館の氏の略歴表で初めて知った。その経験と体験から作品を書き始められ、先達に認められ世に出た。才能を見抜いたのは大宅荘一と里見 弴、ということも初めて知った。展示品の中には椋氏の作品を賛嘆する里見の手紙も展示されていた。

 アカショウビンが小学生時代に氏に興味を持ったのは、氏が鹿児島に住んでおられ図書館の館長を勤めながら鹿や猿など動物達の生き方を作品化されているという事だった。だから当時は鹿児島の人だと思っていた。中学生の頃は島尾敏雄という作家が同じ市内に住んでいるという担任の教師の話から小説を書いて生きている人々に興味も涌いたのだった。

 かつて訪れた島尾の故郷、福島県相馬の荒涼とした風景とは異なり椋の故郷は天竜川流域の豊饒な実りに恵まれた見事な景観の土地だった。遥か彼方の飯田の街並みや天竜川沿いの光景が眼を和ませてくれた。

 仕事の合間のひと時の時間だったが娑婆での奇遇と幸せを体験できたことを悦ぶのである。帰りは飯田から高速バスの中で一杯飲んで惰眠を貪った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »