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2010年8月 5日 (木)

瞑目と刮目

 この夏に私たちは先の大戦の死者達に日本国民として一人の人間として歴史を想起し瞑目する。戦争を放棄した現在の日本という国で男達が国家によって死を覚悟する状況に追い込まれることはない。それは世界の国家を見渡せば稀少であり戦争が日常となっている国家から見れば何とも不可思議な姿を呈しているだろう。一人の国民としてアニメ文化と尊称か揶揄される現状を見れば慨嘆し落胆するしかない。戦後の日本という国は世界史のなかで突出し傑出して特異な形態を呈していると思える。若者たちだけでなく今や中高年たちの引きこもりが増えているらしい。引きこもるには或る程度の経済的余裕が必要であろう。現在のアカショウビンに引きこもることは無理というものである。それは不幸なことなのか幸いなのか。戦後日本と日本人は腑抜けになったと勇ましく怒る勢力もある。しかし享楽を享受できる幸いは貴重だ。

 戦いで斃れた兵士たちや戦火で殺された国民の死者たちへアカショウビンは深く頭を垂れ瞑目する。しかしそれだけで済ますわけにもいかない。20世紀を経て新たな百年というモノサシで考えればナチズムとコミュニズム、スターリニズム、それに加えて原爆投下によってドイツの絶滅収容所と同じくその罪が問われ明らかにされなければならないアメリカニズムという功罪併せ持つ形態が人間が行き着いた或る人々の姿として存在するからだ。そのなかでナチズムは人間と存在を思索したハイデガーにとっては歴史的な偉大な可能性だった。絶滅収容所という驚愕するしかない行為を冷徹に実践したドイツ人の代表的な知識人の一人としてハイデガーは責任を自覚しながらも、そこから逃れるように、しかし彼が思考した理想のナチズムに固執し戦後もそれを通奏低音として思索を継続した。そこには謝罪といった行為で済むことではないという意志もはたらいた筈だ。政治的に謝罪しても済ませられない責任が存在する。それはヤスパースが主張する「形而上的な罪」という考察を辿ることで思索できる。ナチズムが席巻したドイツでハイデガーとヤスパースという二人の哲学者の対比はドイツだけに限らず彼らが思索した思考は日本人にもアメリカ人にも他の諸国家の一人一人の国民にとって無関心ではいられない内容を有する。

 私たちは親たちが経験した戦時体制を経て享楽体制とでも見做せる時代を生き続けている。その幸いと裏腹に生じる不幸にも視線を向けなければならぬ。それは無関心と虚無という深淵にアカショウビン自らの心身を介して対面・正面することでもあるからだ。そこでは頭を垂れ瞑目するだけでなく、頭を上げ刮目し意識を最高度にはたらかせ見えないものと対峙する覚悟が必要だ。

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