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2010年7月26日 (月)

辛酸入佳境

 田中正造が好んで書いた漢詩であるという。楽亦在其中と続く。正造晩年の境地を集約したものと思われる。殆ど乞食同然の姿で正造は谷中村残留民と共に裁判を闘い、道半ばで果てた。『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』は城山三郎の1961年の作である。当時、田中正造は忘れられた日本人の一人だったろう。小説としての巧拙はともかく、ここに田中正造という一人の男の晩年の姿が活写されている。作品は二部構成で一部の「辛酸」に二部「騒動」が続き正造死後の谷中村残留民の姿が描かれている。

 正造の事件告発裁判は明治33年、西暦1900年に始まり大正2年(1913年)9月4日の正造の死を経て継続された。以来およそ半世紀を経た日本では水俣水銀公害が戦後高度成長期の陰で地獄を現出した。米国ではミシシッピー川流域の農薬公害が一人の学者によって告発された。『苦界浄土』を世に問うた石牟礼道子と『沈黙の春』の作者レイチェル・カーソンが及びもつかない先達は正しく田中正造である。城山の作品は正造の生き様と正面した相手の姿を明かす点景であり全貌に至る一里塚に過ぎない。

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2010年7月15日 (木)

夏に逝く

 学生時代以来の友人、N村君の御母堂の訃報を先日彼からの電話で知った。享年84歳。昨年亡くなったアカショウビンの母より一つ上であられた。都内に住んでいたころ何度か将棋を指しに訪れた時にご存命だったお父さんやお母さんにお会いしたことを思い出す。お父さんは数年前に亡くなられた。お元気だったころアカショウビンが信州へスキーに行ったお土産に地元で購入した野沢菜をお届けしたらことのほか喜ばれたお顔を思い出す。ご逝去の時はアカショウビンも友人のM尾君とお通夜に訪れた。奥様や妹さん、お嬢さんにも久しぶりにお会いできた。それからお母さんは少し痴呆にもなられたことはN村君との電話で知った。しかし妹さんや周囲の手厚い看護で此の世を去られたことは幸せだったと思う。

 親不孝なアカショウビンは昨年亡くなった母と死までの5ヵ月間が罪滅ぼしの短い時だった。それで罪が失せるわけでもない。弟からは身勝手すぎると詰られた。しかし母親という存在は人と生き物にも他の生き物にも特別な存在であると切に思うのだ。アカショウビンもN村君もおそらく母親から貴重な愛情を注がれて親子の関係を生きたと思われる。それは顔と姿を視れば瞬時に悟ると言ってよい。その直感は外れていないと確信する。もちろん母親といえども女という性を有する。それは息子や娘には深い溝とも思える他者という存在である。しかし親子という関係は特別なものだ。もちろんそれが愛情ではなく裏返せば憎しみともなる。その総体は人様々だ。しかしそれはマザコンと巷間蔑まされるカタカナ語の皮相とは別格のものだ。死が幽明を分かつ時に人はその独特の関係の不可思議と深淵に思い到る筈だ。

 N村君のお母さんの訃報を知らされた前には新聞記事で、つかこうへい(以下、敬称は略させて頂く)の死を知った。62歳とは現在の平均寿命では早い死だ。アカショウビンはつかの芝居のファンというわけではない。しかし映画の「蒲田行進曲」(1982年 深作欣二監督)はとても面白く観た。芝居と映画のテンポはもちろん異なるだろう。しかし映画の物語のテンポは実に小気味良く脚本が練られたものであることは推察できた。主演の風間杜夫、松坂慶子、平田 満の姿が思い浮かぶ。

 先般の井上ひさしにしろ、つかにしろアカショウビンは芝居より映画で作品に出会った脚本家である。芝居のナマの舞台に接したかったが今となっては叶わない願いだ。しかし映画は今やDVDで何度も観ることができる。それが幸いなのか不幸なのか。複製品との出会いは音楽にしてもレコードやCD、テレビ映像、DVDを介する現代人の新たな経験の如きものである。その幸不幸に鈍感であってはならないと思う。

 夏は歴史を介してアカショウビンにとっても恐らく多くの中高年者たちにも特別の意味を持つ。それは夏の死者たちとして想起されてもよいだろう。N村君のお母さんやつかの死も日本人や在日コリアンの死として夏の葬列に連なっていく。少年、少女、若者たちが謳歌する夏とは異なり中高年たちは老いて死を予感し自覚し彼らとは異なる時間を過ごす。それはつらくもあるが貴重でもある筈だ。

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2010年7月11日 (日)

内戦の記憶

 この10年近く40歳代半ば頃から目覚めは早い。若い頃の乱脈な生活のツケが回ってきているのか?ゆるやかにか、或る日突然にか、自らの死を心身は先駆的に覚悟、自覚しているのだろう。人間の生物としての寿命は平均的に100年を超えることはない。100歳まで生きるだろうと思っていた母も82年の生涯だった。

 昨朝は嘉手苅林昌のCDを聴きながら過ごしたが今朝はいつものNHKラジオの電源を入れると謹聴した。カンボジアのポル・ポト政権下の虐殺を生き延びた女性の語りである。何とも見事な日本語に驚く。聴けば1965年生まれで10歳で苛烈な経験をされている。10代半ばで日本に留学していた姉を頼りポル・ポトの恐怖政治支配下のプノンペンから脱出し来日された。しかし内戦で父母や姉妹を国家に殺され奇跡的に兄や姉と生き残った経験は言葉で尽くすことはできないだろう。美しくさえある日本語で語られる経験は感情があはれとも思われるように抑制されて静かに明晰に語られた。その言葉の奥を想像し震撼するしかない。かつて「キリング・フィールド」(ローランド・ジョフィ監督 1985年日本公開)という映画が内戦の苛酷と苛烈を描いていた。

 彼女の話は生き残った者の語りである。その奥には苛酷に無残に殺された死者達の声と姿を想像しなければならない。今や40歳代なかばの彼女は二人の子の母親である。20歳前後の子達は母の体験をどのように聴き取り自らの生に活かしていくだろうか。

 戦後65年を経て日本国は一見平和でのどかである。テレビの電源を入れればチベット僧が曼荼羅と見做した映像が現出している。そこでは他愛もない青春ドラマや広告やお喋りが繰り広げられている。本日は選挙報道でマスコミは過熱するだろう。その幸いを冷笑しないようにしよう。それはいつか裂けて新たな悲惨と地獄が現出するかもしれないからだ。

 先日の「深夜便」で聴いた、先の大戦・朝鮮戦争の内戦を経験されて現在は米国に住んでおられる韓国女性や今朝の放送で語りを聴いたカンボジア女性は生き残った者として現在を生きておられる。その幸いの陰には様々な死者の声と姿が響き現出している筈だ。日本国の平和がいつまで続くか知る由もない。しかし現在を生きるわれわれにも死者達の記憶と自らの生を介して将来・未来に記憶と体験は引き継がれ渡されていく。それは殆どが生きる為に費やされる享楽と忘我・忘却の日々といえども或る人々には娑婆世界を生きるために背負う重い荷でもあるのだ。

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2010年7月 6日 (火)

梅棹忠夫氏、追悼

 夕刊で亡くなられたのを知った。享年90歳。ご長寿で何よりだった。氏の著作を読んだのは高校生の頃だ。ベストセラーだった「知的生産の技術」を読んでから「文明の生態史観序説」を読んだ。師の今西錦司の著作も関連して読み実にありがたい知的刺激を受けた。戦前・戦中の国策を補完する役割を担った思想的「京都学派」とは立ち位置を異にする理系「京都学派」の存在は日本の学問世界で独特の光を放っていたと思う。

 1986年に失明された事を知り気になっていたが新聞紙上などでその後も精力的にお仕事を続けられておられることを喜んだ。毎日新聞の夕刊記事では失明されてからお弟子さんや氏の読者たちが温かく氏を支えて精力的に仕事を続けてこられた様子が窺えた。アカショウビンの高校時代には氏の御子息の著書も読んで面白かった。熱気球に夢中になったユニークな生き方は梅棹ジュニアならではと解した。

 氏の業績を継承する人々は直接間接に多い筈だ。師の今西学派から独立した梅棹学派の俊秀たちの仕事にこれから注目することもあるだろう。よそ者には閉鎖的とされる京都という地から学問的には創造的で自由な学者が多く輩出された理由は何か興味深い。それはともかく長寿をまっとうされた碩学のご逝去を著作への感謝と共に心から追悼させて頂く。

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2010年7月 5日 (月)

或る戦争体験

 たまたま明け方にラジオの電源を入れたらNHKの「ラジオ深夜便」という番組でキム・アンナさんという韓国の女性がご自身の体験を語られていた。途中からだったが聴き続けさせられた。彼女は満州で敗戦を迎え幸いにも故国に帰られたけれども朝鮮動乱でまたも戦争を経験する。それは世界大戦とは異なる内戦の苛酷と非情さを身をもって経験・体験するということである。その渦中で、ソウルで銀行員の方と結婚され、その後ご家族で日本にも足掛け4年滞在された。キムさんは旧満州の牡丹江の女学校をご卒業されており日本では同窓生たちとも旧交を温められた。その後、渡米し長く米国に在住されておられる。現地では「命の電話」という日本人や日系の人々の緊急の苦しみの電話相談も継続されておられる。

 お話の中で特に印象深かったのは内戦の苛酷である。同じ民族同士が殺しあう悲惨と苛烈は言語に絶するものであろう。それは兵士同士の殺し合いではなく兵士が市民を殺すという悲劇を生む。沖縄戦では日本兵が沖縄の人々を惨殺した。

 ドイツでもナチズムの嵐の中でユダヤ人が「工業的規模で」(@ヴィクトル・ファリアス)、またドイツ人の有識者たちがヒトラー政権の突撃隊、親衛隊によって無残に惨殺されている。先に挙げたヤスパースの問いは洋の東西を問わない内容に富む。アカショウビンはハイデガーの戦中の言説を改めて読んでいるところだが、当時のドイツの国状は同盟国として我が国の当時の論説とも無縁ではありえない。西田幾多郎はじめ京都学派や保田與重郎、小林秀雄らの言説・論説ともそれは精妙に呼応している。ドイツ人としてのヤスパースやハイデガーの戦後の生き様や論考、小林や保田はじめ日本人の生き様、論考と共に繰り返し読み直し現在にフィードバックさせなければならない。

 キムさんの場合は一人の戦争体験者の語りとして貴重である。梅雨の夜の明け方に、そういった声を聴けたことは幸いである。眠れない夜に繰り返し聴いて厭きない嘉手苅林昌の声と蛇皮線ともそれは味わい深く共鳴し共振するのだ。

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