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2010年6月15日 (火)

友を選ばば

兼好は「友とするに悪(わろ)き者」に七つある、と説く(徒然草 第百十七段)。「一つには、高くやんごとなき人」。高貴な人、高位の人、僧侶なども含むのかもしれない。

「二つには、若き人」。これは面白い。法師の意図は奈辺にありや?恐らく、体力を持て余し傍若無人の若者の無神経とガサツさに我慢がならないのだ。アカショウビンも夜勤の仕事をしている時に、酔っ払ってバカ丸出しのガキ二人が昼間に比べ格段に人通りの少ないのをいいことに大通りを大声で喚きちらし、道路脇の自転車を次々と薙ぎ倒している光景を見たときには殺意さえ覚えた。法師も似たような経験をしたのかもしれぬ。ここで法師は簡潔に、未熟を自覚しない我がままで甘ったれた若者のことをいっているのだろう。

「三つには、病なく、身強き人」。これもよくわかる。病は人を絶望にも陥れるが病が癒えれば人を曰く言いがたく深くする。身体の頑健な人にその深みはわからない。太古より人は工夫を凝らしをこれを克服をする術を発展させた。治療術の進歩は人という生き物が単なる動物から更に異なる段階へ脱皮する契機となっただろう。アカショウビンも「身強き人」を羨ましいと思うことはない。病は人間が異なる心的状況へと移行を促す逆説的な経験をもたらすからだ。ところがテレビを見るとやたらに視聴者に阿る健康食品の多いこと。健康であることは幸せなことであるが、それは病と裏腹である。歳を重ねればそれを誰人も経験するが珠に健康過ぎる人がいるのである。そのような人と共に人生の妙味は語れぬ、と法師は慨嘆しているのだ。

「四つには、酒を好む人」。これはアカショウビンには異論もある。ガキの酔っ払いは論外だが古来、大和の国で酒は多くの文人に愛されてきた。先月訪れた鉄斎美術館の鉄斎の模写にも酒に酔う大伴旅人の面白い作品があった。大陸では詩人李白もこよなく酒を愛した。ここには法師の生真面目さが垣間見られて面白いけれども。

「五つには、たけく、勇める兵」。これは先の大戦の後に掌を返したようにマスコミが高唱し多くの国民も同様に同調した。当時の武具に身を固めた武士の威張り散らした姿に法師は閉口したのであろう。

「六つには、虚言(そらごと)する人」。これは現代でも同じだが当時も多かったのだろう。昨今の政治状況では前首相だ。引いては戦後に沖縄を皮切りに国民を欺き続けた権力者達である。

「七つには、欲深き人」。これは現在の金満国家国民に多く共通する心の構造であろう。経済的困窮の渦中にあるアカショウビンには実に共感する指摘である。

 法師は更に続ける。「よき友、三つあり。一つには、物くる友」。法師のニヤリとした顔が見えるようだ。

「二つには医者(くすし)」。いつの時代も病を治療する人々は敬されたことだろう。古代には呪術とも表裏一体だった。現代でも未開の地では巫者が存在しているだろう。 しかし昨今の最先端の医療技術が万能でもない。アカショウビンも先日、大腸の内視鏡検査で若い医師たちがテレビゲームを楽しむように内視鏡を操る様子を麻酔に朦朧とした眼と意識で見たとき実に危ういものを実感した。しかし医は仁術を体現されている医師もおられるであろう。そのような方とお近づきになりたいものである。

「三つには、智恵ある友」。いかにもそれは少なくとも貴重である。昨今の憂きこと多き自らの生を省みるに「智慧ある友」は不可欠である。最近はもっぱらネット上の見ず知らずの人々の中に賢人は確かに存在する。一つの事実を共に多様に語る面白さは世に棲む日々の恵みの如きものである。

法師の文を辿ると、通俗とは何か?また脱俗とは、超俗とは?という問いも生じてくるのだが。

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