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2010年4月 7日 (水)

死と死刑制度を問い直す

 毎日新聞4月2日(金)の夕刊に青木新門さんのインタビュー記事が掲載されている。「納棺夫」として約3000体の遺体を送ってきた人である。「今の社会をどう感じますか」という問いかけに次のように答えておられる。抜き書きで恐縮だが★はアカショウビンのコメントである。

 「今日の社会は生にのみ価値をおいて死を隠蔽して生きている。24時間後には昼と夜があるのに、こうこうと光を照らして死の世界を隠そうとしている社会なんです」。

 「なのに自分のこととなると、青春は美しいが老は醜く死は忌み嫌うものという概念にぶち当たり不安になるんです」。

 ★まったく同意だ。不夜城と形容される都会はその象徴のように見える。田舎には未だ夜の闇の深さがあるだろう。

 「なぜ死を隠そうとするのでしょうか」という問いには次のように答えておられる。

 「着陸体制に入らない社会だからです。(中略)人間も本当は50歳くらいになったら着陸態勢に入らないといけないのに、生にのみ価値をおく今の社会では、50歳までの「いきいき」した生き方を単純に延長しようとしています。

 ★人間50年という戦国武将の覚悟とされている人生観・世界観は50歳を起点として人それぞれが暫し新たな思考を始めなければならないターニングポイントとしたら如何であろうか。そこから人は老いと死を射程に入れて考える時を迎えるのだと思うからである。

  「秋の紅葉が美しいのは温度変化に対応しているからです。人も老という環境変化に対応した時が一番美しい。そう気付いた時、死もまた美しいと実感するようになったのです」。

 ★ここで人も植物も他の動物、生き物は同じように見えるのは錯覚だろうか?

 『おくりびと』は素晴らしい映画でしたが、原作を辞退したのは永遠が描かれていないからです。残された人の苦しみをいかに癒やすか、今がよければよいというところで終わっている。

 ★これは青木氏の優れた見識を明かしている判断と解する。以前に映画を見た感想でも述べたが『おくりびと』は青木氏の著作を換骨奪胎して仕上がった作品だ。それはそれでよかろう。しかし著作で紹介、思索、考察されている親鸞の思想や賢治、高見 順の詩は映画で表現されていない。そうであれば「原作者」としては映画制作の動機はともかくまったく別の作品として理解して頂こうという配慮がはたらいたものと察する。

 「臨終の瞬間に立ち会うことを勧めていらっしゃいます」という問いかけには次のように答えておられる。

 「そこにしか死の実相はないからです。亡くなる瞬間は、誰もが優しいいい顔をしているんです。(中略)優しい顔になるのは、自我が崩壊するからでしょう。(中略)生きているうちは自我を捨てるのは難しいけれど、嫌でも投げ出す瞬間が死ぬ時です」。

 ★これは多くの人の臨終を看取った人こその見解だ。そこで「自我」とは何か?という考察を促されるが、それはまた別の機会に。

 そして最後に次のように述べて記事は終わっている。

 「最近は毎日少しずつ本を捨てています。知識、、物、地位や名誉を捨てるともっと楽になるんです」

 ★殆ど悟りの境地とも言える。アカショウビンにこの境地は遥か彼方だが、工夫参学は昔の仏者たちの顰に倣い試みることはできよう。

 新聞報道では中国での邦人死刑囚の死刑が実行された報道も物議を醸している。自国の死刑制度は8割以上が容認していて同様の制度のもとでの死刑執行に文句もつけられまい。そこで新たに国家が人を殺す事への是非が問われてもよい筈だ。

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