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2010年4月17日 (土)

痛みの度数

 三年ぶりに大腸内視鏡検査で市内の大病院へ。前は都内の大病院。規模は大阪の方が大きく廊下も広くゆったりと設計されている。それに静かだ。それはとても清潔だが無機質で或る冷ややかさを醸しだしている。静謐と清潔は矛盾しない筈だが静謐のなかの冷ややかさは不安を醸しだす。おそらく最先端の医療体制が整えられていて内視鏡カメラも最新の機器が使用されているのであろう。

 大腸の内視鏡検査は前日から下剤を飲み腸をきれいにしてカメラが大腸内を鮮明に撮影できるように準備する。大量の下剤と水を飲み2日がかりで排泄するのだ。辛い。これは経験した人でなければわからない。人によっては、どうってことはなかったよ、という強者もおられることだろう。しかしこの2日間の経験は病む人の辛さを経験する入り口である。

 午前9時前に受付を済ませ、先ず内臓のエコー検査。腹にゼリー状の液体を塗られ超音波で内臓の様子をディスプレイに映し出す。約10分で簡単に済む。それから午後2時の検査まで前夜に続き下剤を飲み続けるのである。排便が黄色味のない透明になるまで10回くらいトイレを往復する。その間は2時間かけて水で薄めた2リットルの下剤と市販の飲料水を同量ほど飲み続けるのだ。この間はたまらなく暇で自由な時を過ごせる。多分読めるような心境にはならないだろうと思いながらも持参した読みかけの本に久しぶりに集中できたのは幸い。隣の受診者の還暦過ぎくらいのオッチャンは漫画と週刊誌を読んでいたが、それにも厭きた様子。こちらに話しかけてきた。

 聞けばオッチャンは内視鏡検査受診者のベテランである。毎年、定期的に検査していると話す。下剤も飲みやすくなった、それにカメラを通しても以前に比べれば痛みは軽くなったと言う。こちらは少し安心する。なるほど、さすが技術大国日本。医療機器は年々進歩しているのだ。下剤には都内の病院以上に苦しめられたけれども。

 午後1時40分の排便で若い女看護師からOKが出る。気さくな女だ。別嬪でも不細工でもない。そこが患者には好いのだ。他人の雲古を仕事とはいえ日常的に眼にするわけである。辛い仕事だ。しかし笑顔は患者に天使の如きものである。

 午後2時の予定が10分くらい前に検査室へ。検査室といってもポリープがあれば切除するのだから治療・手術室でもある。別の若い女看護師が腕に注射し血管から麻酔薬と痛み止めを体内に投入する。しばらくすると体内が熱くなり意識が朦朧とする。半覚醒状態だ。目の前のディスプレイは見えるしカメラ操作医や女看護師の声も聞こえるからだ。内視鏡カメラが肛門に入る。ヒヤリとした冷たさを感じ一瞬の緊張が走る。オッチャンの話が脳裏を過ぎったが裏切られた。医師はディスプレイに映されるアカショウビンの大腸内を見ながら手に持ったリモコンで内視鏡を操る。時間を惜しむかのように。

 ここで患者と医師の間には人間的関係が構築される努力がまったく無視されている。病院といえどビジネスなのだ。制限された時間の中で多くの患者を治療を遂行しなければならないというわけだ。しかし、そこにはハイデガーが「工作機構」という用語で批判した近代以降の科学万能主義に振り回される人間たちが技術に逆に支配されるという戯画が現出している。そこに医者というエリート職に就いた秀才・鈍才のお坊ちゃん達は無自覚だ。哲学を学ばない医者は秀才といえど片輪でしかない。

 グリグリと痛みが下腹部から鈍く伝わる。思わず声を出す。しかしお坊ちゃん医師はそれを無視し無言。このヤローと叫びたくなる。声は出るというより出す。痛みを言葉で逃れようとして。しかし彼らはそれを教えられていない。なぜならディスプレイを見ていた別の若い医者が叱りつけるように言葉を発したからだ。「静かにしてください」。この一言に現代医療の現実と実態の何物かをアカショウビンは察知した。彼らは仁術という古人の至言を体得していない。医療器具の最新技術をゲームを楽しむように操作しているのだ。カメラが大腸を視角化するため探査することで我が身には代償として痛みが与えられる。鈍い痛みは続く。

 聞けば上手い医者なら10数分で終えるという。しかし以前も今回もアカショウビンは若い医者たちの練習材料である。30分以上はかかった。肉体は物質であるが心身で痛みを覚知する生き物である。それに若い医者たちはどれほど自覚的なのか?心寒い思いだ。その点、若い女の声は何と安らかに感知されるのだろう。おそらく人は声で声の主の知性を瞬時に判断し理解する。アカショウビンには女看護師の声が救いとなった。そこには賢い大和撫子の教養が推測された。ありがたや、ありがたや。

 処置が終わり男達はさっさと部屋を去る。残った女看護師が優しく語りかける。オッサンは駄洒落で突っ込みを入れる。受けない。マスクに覆われたお顔は苦笑しているのであろう。残念である。修行が足りない。

 手術台で人間は痛烈に孤独である。思索者は孤独を単独化とも説く。しかし暫しの孤独と単独化は街の喧騒に溶け込めば忘れる。娑婆とは斯くの如きものである。かつて映画監督小津安二郎は晩年のガン闘病で俳優やその家族たちに「痛みには度数がないからね」と語っていたと記憶する。正しく痛みにはピンからキリまであり科学的・数学的に度数は付けられても痛みを発する者に痛みは千差万別である。そこに想像力を働かせ痛みを漏らす者に対処する。それが医者の仁術というものであろう。しかしアカショウビンが経験した現在の医療に従事する医者たちには経験的に不安を感じた。もちろん知情意を兼ね備えた医者はいらっしゃるであろう。最新の医療体制で治療を受けられたことは幸いとしなければなるまい。地方や離島の悪条件の方々の労苦・痛苦に思いをいたせば。しかし、そこから更に一歩踏み出し考えたい。そこで知性の光は現実世界を更に広く照射し明るくする筈だからだ。

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コメント

それはそれは大変でしたね。私も病院と検査はイヤというほど経験しましたから、少し判ります。
医者同士で、ゴルフをやりながら「きみは何人コロしたかい」「いいえ、まだ数えるほどしか・・・」「もうちょっと修業しなきゃね」なんて会話が交わされている(ウソかホントか、でもウソだとしてもホントみたいでありますが)なんて話を聞くと、医者にとっては、患者はある意味、実験材料みたいに思えるんでしょう。
ブログを詠ませていただきながら、20数年前の入院時のことを思い出し、「白い巨塔」の空気は、ちっとも、変わっていないのだなと思いました。
痛みはつらいですよね。どうぞお大事に。

投稿: Clara | 2010年4月18日 (日) 午後 04時15分

 Claraさん

 >医者同士で、ゴルフをやりながら「きみは何人コロしたかい」「いいえ、まだ数えるほどしか・・・」「もうちょっと修業しなきゃね」なんて会話が交わされている(ウソかホントか、でもウソだとしてもホントみたいでありますが)なんて話を聞くと、医者にとっては、患者はある意味、実験材料みたいに思えるんでしょう。

 ★本音と建前をエリート達は器用に使い分けます。しかし、その当事者となればたまったものではありません。

 >20数年前の入院時のことを思い出し、「白い巨塔」の空気は、ちっとも、変わっていないのだなと思いました。

 ★そのシステムは依然継続していると思いますね。

 >痛みはつらいですよね。どうぞお大事に。

 ★ありがとうございます。

投稿: アカショウビン | 2010年4月18日 (日) 午後 11時32分

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