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2010年3月25日 (木)

陶酔と没我

 引っ越しで久しく観ていなかった古いビデオを日々の鬱屈から逃れるように観直した。カナダの放送局が撮影したグレン・グールドの姿を追った番組である。50歳で此の世を去った天才の日常と録音風景、コメントが聞かれる貴重なドキュメンタリー・フィルムだ。この稀代のバッハ弾きは「フーガの技法」(BWV1080)の録音はピアノでなくオルガンでしか残していない。しかも全曲でなく9曲のみである。それだけでも貴重だが、やはりピアノで全曲録音してもらいたかった。ところがこのテレビ放送ではピアノで弾く映像が見られるのである。テンポは若きグールドが世界を席巻したデビュー作の「ゴルトベルク変奏曲」のテンポとは異なる死の前に再録した演奏のテンポに酷似している。その演奏する姿は巷間に流布している恍惚とも陶酔、没我ともいえる状態での演奏である。瞑目し上半身をゆっくりと揺らし円を描くように動かしながら打鍵する。それは実に神業のような「フーガの技法」だ。それはバッハを熟知した者にしかできない演奏とも言える。

 好い機会だとオルガン演奏の「フーガの技法」を久しぶりに聴き直した。レコードは売却してしまったのでCDだが第1曲はピアノ演奏のテンポとは異なる。やはりバッハの深みは遅いテンポで垣間見える思いだ。晩年の「ゴルトベルク~」はグールドというピアニストの生涯の集大成として実に奥深い響きを醸し出していた。グールド自身も後半生に向けて新たな次元を開く可能性を掴んだのではないかと推察される。ところが突然の死は自身も周囲の人々も世界中のファンも呆然とさせることになった。

 そこで少し愚考を促すのはグールドがこだわった、聴衆を前にするコンサートを忌避しスタジオに籠り作成した幾つものトラックから最上のものを選びレコード化するという手法である。ライブとは異なる録音機器を通じた聴衆不在の人工的な演奏の持つ可能性とでもいうのか。それは量産されるテレビ映像とは異なる想像力を促すラジオ・ドラマ放送が開く世界の豊饒さに通じる。現代人はテレビ映像を介して視覚に鈍感になっている。日常でテレビの垂れ流す陳腐な映像で感覚を麻痺させられているのが我々の日常というものであろう。グールドを聴きながら改めて耳を通じて音に集中する恵みに浸った。

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コメント

2009年1月7日の「新年の門出と家族の記憶」を見ました。お母さんの乗っていた空襲を受けた船は、名瀬と徳之島間の連絡船の「共栄丸」のことでしょうか。1944年10月10日の初空襲の時に銃撃を受けて、多数の死傷者を出していますね。

投稿: きくどん | 2010年3月25日 (木) 午後 04時38分

 きくどん様

 コメントありがとうございます。 

>名瀬と徳之島間の連絡船の「共栄丸」のことでしょうか。

 ★おそらくそうだと思います。船名が母の話にも出ていたように思い起こします。1944年10月10日という日が特定できるとは何ともありがたいことです。昨年9月に他界した母に今となっては再確認できませんが。
 きくどん様は徳之島のご出身なのですか?当時の様子をご存知であればもっと詳しく知りたいと思います。

投稿: アカショウビン | 2010年3月25日 (木) 午後 09時44分

返事が遅れてすいません。私は長野県の出身ですが、大学の卒業論文で奄美諸島のことを調べて以来、色々と調べています。徳之島には3回行っています。

私事ですが、ヤフーのブログで「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」を週1回のペースで更新しています。その中で「奄美近海での船舶被害(13)-10・10空襲-」を載せていますが、共栄丸について少し書きました。その後新しい資料も含めて調べなおしましたものを下に載せます。

「時間は不明だが、名瀬と徳之島を結ぶ連絡船「共栄丸」が空襲を受けた。同船は午前七時に軍の輸送船と共に疎開者を乗せて徳之島を出港し、皆津崎沖合で米軍機の機銃掃射を受けた。この攻撃で五名が死亡、一四名が重傷を負い名瀬の病院に収容されたという。(註13)この時の死者数については十数名が死亡したとの説(註14)もあり、詳らかではない。同船は桟橋に(私註、名瀬の桟橋か。)横付けにされ、警察や警防団が負傷者の手当てを行った。(註15)
 また同行した輸送船も攻撃を受けて死者七名、重傷者五名を出している。(註16)輸送船の船名は不明だが、沖縄に本部を置く陸軍暁部隊所属の船であったようだ。暁部隊員の一人は瀕死の重傷を負って、敗戦まで約六ヶ所の陸軍病院を転々としている。(註17)もしかすると註14の犠牲者数は、この輸送船の分も含めての数字かもしれない。

(註13)勝元清「日記「激戦下の徳之島」」(『徳之島郷土研究会報 第六号』(徳之島郷土研究会 一九七三)所収) 七頁、元田永真『続わーきゃしま花天』(私家版 一九八五) 四三頁
(註14)前掲註13の後者 四三頁
(註15)重武克彦『回想録』(海風社 一九八四) 二二六頁 
(註16)前掲註13 七頁
(註17)『平和を望みて「国際障害者年」記念誌』(三原郡傷痍軍人会 一九八一) 二〇七頁」

共栄丸が攻撃を受けた状況は、註13の2冊が一番詳しいと思いますが、生存者から聞いた内容を書いたもののようです。直接の証言者の話は聞いたことはありません。2冊とも該当ページのコピーを持っています。鉛筆で線を引いてありますが、もしよろしければお送りしましょうか。

投稿: きくどん | 2010年9月15日 (水) 午前 11時38分

 きくどん様

 コメントありがとうございます。御ブログを拝見させていただきたいと思います。奇しくも本日は亡き母の一周忌です。昭和19年10月10日の「午前7時」に恐らく亀徳港だと思いますが、そこから祖父と二人で乗船する若い母の姿を想像し、或る過去を偲び幻想し、母を改めて弔いたいと思います。

投稿: アカショウビン | 2010年9月18日 (土) 午後 12時33分

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