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2010年2月 9日 (火)

混沌としての有るもの全体

 先日、高校時代の同級生が亡くなったということを友人から聞いた。半年前に脳梗塞で入院したが回復できなかったようだ。郷里の福岡で葬儀を行ったという。アカショウビンは同じクラスになったこともなく話もしたことがなかった。しかし同窓の者たちの訃報は暫し瞑目するしかない。一人一人現世から去っていくことを自らの身心でどう理解するか?それは宗教的、哲学的、文学的テーマだ。そのような領域のことでなくとも人は心と肉体と精神のすべてを活性化させて死という現象に臨む。死を現象と捉えることの可否はさておく。しかしそれは日常の生活感覚に衝撃をもたらすものである。その程度は各自それぞれといえども経験は誰しも分かち持つ。

 昨年9月に母を失ったアカショウビンも肉親の死は18年前の父の死以来だった。父の葬儀は盛大だったが母の葬儀はひっそりしたものになってしまった。規模はともかく父の葬儀の儀礼的な体裁が過渡にも感じられた葬儀より母のものは身内だけの慎ましいもので母にとっては好かったのではなかったかと思う。縁あった多くの方々にはもう少し早めに連絡しお越し頂ければよかった。しかしアカショウビンの不精で母には申しわけなかったと悔いたけれども。

 火葬が一般的になった現在の国内外の葬儀の形態で人は死ねば焼かれ骨と灰になる。遺体は斎場の装置で処理され骨は砕かれ捨てられたり墓に保管され、灰も処理され捨て去られたり或いは大地や海に撒かれる。故人の生の痕跡は遺族、親戚、友人達の記憶の中に、あるいは遣り取りされた手紙や残された日記や文書に残る。しかし、それらも時が経てば失われる。

 ハイデガーはニーチェの思想・哲学と対決するうえで次のように述べている。

 留保付きでいえば「生」とは根本現実である。すなわち、「我々の全世界は、無数の生きたものの灰である。たとえ生物が全体と比較すればほんのわずかであっても、すべては既に一度生へ転換されたことがあり、またそのように続いていく」(ニーチェ)。

 またニーチェは次のようにも述べていることを引く。

 「我々は、死が生に対立すると言わないように用心しよう。生きているものは死せるものの一種に過ぎない、しかし非常に珍しい種類である」。

 これに対しハイデガーは次のように述べる。

 だが、しかし、このように少なくて稀なものである生きているものが、灰である多数のものにとって、いつも火付け木なのである。(中略)死んだものは生きているものから生じ、それが多数となって再び生きているものを制約する。(中略)「世界」は、我々の計算的悟性が承認するよりも、はるかに謎めいているということである。(『西洋的思考におけるニーチェの形而上学的な根本の立場―等しいものの永遠回帰―』 創文社 p89) 

 ハイデガーはニーチェの「世界の総体―性格は、これに対して、いつまでも永遠に混沌である」(『悦ばしき知識』の断篇)を引用して、「混沌ということで、ここでは、単に乱雑で恣意的な、任意で偶然的な混乱といった表面的な表象が考えられているのではない。有るもの全体を混沌とするこの根本表象は、依然としてよく注意されなければならないものであるが~」と更にニーチェの永遠回帰教説に鋭く踏み込んでいく。

 「混沌としての有るもの全体」は人間たちに根本的な思索を求めてくる。それには死すべき者としての人間が身近な肉親や近親、友人であれば切実である。ここで50歳を過ぎれば~といった感慨に耽ってはいられない。生き抜くためには力を奮い起こさなければならぬ。ハイデガーが説く「人間は未だに能く死んでいない」という洞察を考え抜きたい。そこで思索・考察は観念論に落ち込んだり感傷に耽っている暇などないことは言うまでもない。

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