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2010年2月14日 (日)

「貧しさ」と「精神」

 生活の困窮の中で喘ぎながら窒息してしまわないように右往左往する。これが昨年来のアカショウビンの身過ぎ世過ぎである。そこでアレコレの本や音楽を通し模索、愚考を重ねる。先に読んだハイデガーの「貧しさ」も、その中で立ち止まり立ち戻り再考を重ねばならない論考(講演)である。 

 それはフィリップ・ラクー=ラバルトがハイデガーの「貧しさ」(2007年 藤原書店)でドイツの国民詩人ヘルダーリンとハイデガーを介してマルクスを読み直すことにも繋がる考察であろうからである。ラクー=ラバルトが注釈する深読みというか裏読みとも思える思索に共振してアカショウビンも屋上屋を重ねる愚を恐れるものの一歩を踏み出すことは何か新しい収穫があるかもしれない。

 ハイデガーが1945年のドイツで身近な聴衆に語った意図を探ることは苛烈な時代を生きた有数の思索者、哲学者の豊饒とも孤高とも思われる思考に分け入ることである。異民族の抹殺を踏まえて自民族の世界支配を目論んだナチズムに関わった哲学教師の戦後の思索、考察、論考は再考、再々考に値する。そこでは人類史を俯瞰し有とも存在とも訳される概念を生涯かけて思索した稀有の思考があるからだ。マルクスに深く影響されたと推察されるラクー=ラバルトがユダヤ人という出自を込めて読解を試みるハイデガーというナチと関わった稀有の哲学者の思索に踏み込み述べる晩年の論考は後に続く者たちにとって避けて通れぬ通路である。

 ラクー=ラバルトはハイデガーの「貧しさ」という演題の講演について当時ハイデガーが初期マルクスの論考を読んでいた筈だと推察し「プロレタリアート」という概念との関係性を指摘する。それはハイデガーがキーワードのように使用する「精神」「本来的」という術語に対するリオタールやアドルノの異論、反論とも呼応する。

 ハイデガーは冒頭、ヘルダーリンの次の言葉を引用している。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 そしてギリシア以来の西洋史に於ける「精神は質料の対立項だといわれて」いる〝精神〟の来歴が述べられ、「ロシア・コミュニズムと名づけているものは、ある精神的な世界に由来するのだと、まったく誇張なしに言えるのである」と説く。更に「これは当時の時代情勢に於けるひとつの事実を歴史学的に確認した言葉では決してなく、<存在>そのもののうちに隠された生起の、つまり来るべきもののうちにまで届くはるかな射程をもつ生起の、思索と詩作による命名である」と述べる。(同書p16)

 そしてラクー=ラバルトも指摘している次のハイデガーの独特の考察は熟考しなければならないだろう。

 しかしながら、貧しさの本質はある<存在>のうちに安らっている。真に貧しく<ある>こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で<存在する>ことを言う。

 真に欠いているということは、不必要なものなしには<存在>しえないということである。したがって、まさしく不必要なものによってのみ所持されているということである。

 しかし、不必要なものとは何であろうか。必要なものとは何であろうか。必要であるとはいかなることなのか。必要とされるのは、必要にもとづいて、必要を通じて到来するものである。ではいったい必要とは何なのだろうか。必要の本質は、この語の根本的意義にしたがえば、強制である。喫緊のもの、必要とされるもの、強要するものとは、すなわち強制するものであり、我々の「生」において、生を維持せんとする諸々の欲求を無理やり引き出し、我々をもっぱら、これらの欲求の充足のうちへと押し込めるところの、強制するものである。

 したがって不必要なものとは、必要から到来するものではないもの、すなわち強制からではなく、自由な開かれから到来するものである。(同書p18)

 そして以下の断言に到る西洋人ハイデガーの思索は現在のアカショウビンの生活を介して我々アジア人、東洋人、日本人にも熟考を迫る思索である。

 たとえば飢饉であったり、収量不足の年が続くことが危険なのは、西洋の命運全体とその本来性の観点からするならば、おそらく、多くの人間が生命を失うからなのではけっしてなく、むしろ生き延びる者たちが、生の糧とするものを食べるためにのみ生きているからなのである。そのような「生」は、独自の空虚さにおいて自分自身のまわりを空転する生である。気に留められることもまずはなく、またしばしば自分の問題として引き受けることすらない退屈というかたちで、生、空虚さによって取り囲まれる。こうした空虚さのなかで人間は荒廃する。つまり貧しさの本質を学ぶための道程において、おのれを見失うのである。

 コミュニズムという不適切な名称のもとで、歴史的な世界の命運として切迫してくるものによって、我々が貧しくなることはない。我々は、ただ、我々において精神的なものにすべてが集中するときにのみ、貧しく存在するのだ。(同書p23 「存在する」は読点で強調されている)

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