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2010年1月 5日 (火)

孤高の噺家

NHKのラジオ深夜便でウィンナ・ワルツを聴いてテレビの電源を入れると柳家小三治師のドキュメンタリーを放映していた。正月の功徳である。寝て飲んでの不健康このうえない日常にも幸いは訪れる。

池袋演芸場で師の高座を聞いたのは数年前の夏だった。会社の後輩の女性が寄席へ行きたい、というのでアレコレ物色しアカショウビンの好きな小三治師でよいか、と訊ねたら、よいという。その日の前日だかに体調が悪いというので彼女はドタキャン。アカショウビン一人で会場を訪れた。アカショウビンが学生時代から聴き続けてきた噺家と出会ったのは偶然の機会とはいえありがたかった。

 その頃にテープに録って繰り返し聴いた「死神」を68歳の師が演じている。正月の功徳はここに極まる。正しく正月は冥土の旅の一里塚なのである。

 師に興味を持ったのは師がクラシック音楽のファンだということが縁だった。レコードを白い手袋でプレーヤーに載せ謹聴するという逸話も面白かった。最近のネット配信の音楽受容の若者たちからは想像できない姿であろう。しかしアカショウビンの貧しい生活のなかから割く金で買い求めたレコードを聴く行為は師の姿に強く共感したのであった。

 一昨年は師を撮ったドキュメンタリー映画も面白く観た。師も68歳という。リューマチを患うなかでの高座は苛酷である。先のブログで藤原新也氏の著書から引用したチベット僧が言うテレビはマンダラという指摘は面白いけれども映像がナマという現実と一線を画することは言うまでもない。とはいえ昨年は愛聴する米朝師のお元気な姿もテレビで観られた。今年は20代から聴き馴染んできた噺家の老いに至る姿を正月の深夜に観られ自らも老いの過程にあることを自覚する。テレビがマンダラと判ずるチベット僧の視角は興味深い。曼荼羅とは何か?と今年は考察してみようか。

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