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2010年1月15日 (金)

群島としての世界

 ハイチの震災のテレビや新聞報道で見る惨状は関西在住の現在のアカショウビンには阪神・淡路大震災の記憶と共に他人事ではないように関西人は見ていることと思う。そういう経験のないアカショウビンには地震の取るに足らない微かな体験を通じて想像するだけである。

 アカショウビンが若い頃に読み馴染んだ小田 実(以下、敬称は略させて頂く)の名を久しぶりに眼にしたのは阪神・淡路大震災の時であった。時代の寵児とでも言う勢いでベトナム反戦運動で名を轟かせた氏の言動は若いアカショウビンには刮目して読んだ言説であった。辛らつで痛烈な評者からは「泡の如きもの」と吐き捨てられても、未熟で好奇心の塊であった若者たちに氏の言動が鮮やかで勁い説得力を持って受け取られたことも事実ではなかろうか。少なくともアカショウビンはその一人だった。その氏が経験した震災を人災だと吠えた論説は往年のヒーローが甦った思いだった。氏は震災という天災を人災と読み替える。その思考に久しぶりでアカショウビンは共振したのである。氏の死で改めて記憶が甦ったことはこのブログでも書き留めたので繰り返さない。

 地球の裏側で起こった天災には人災の指摘もされていると推量する。人の災難と死は斯くも突然に襲来する。ハイチの被災者も阪神・淡路の被災者と同じであろう。

 そこでアカショウビンが少しく思索・愚考を挑発されたのは先日読んだ「アーキペラゴ 群島としての世界」(今福龍太・吉増剛造 岩波書店 2006年)である。そこには奄美群島から沖縄、さらにその西南の島々でのご両人の体験・経験を介して〝群島世界観〟が実に目くるめく様相で面白く展開されている。それはかつて島尾敏雄が琉球弧をヤポネシアと概念化した論考や吉本隆明の南島論、柳田國男、折口信夫の言説・論説、考察とも響き合いヤポネシア概念を更に魅力的に拡張した思考である。世界を群島と見る。面白いではないか。

 ハイチの現状に思いを馳せるには、たまたま読んだ同書で語り合う両氏の思考が面白く協奏して響きあった。昨年はイスラエルのガザ侵攻で、今年は地球の裏側の巨大地震で、と世界には安らぎが訪れ続くことがない。世に棲む日々は自らの経済的困窮と共に斯くの如しである。

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