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2010年1月29日 (金)

大戦後という時空間

 先日、「カティンの森」というポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ監督の2007年制作作品を観てきた。戦時中も戦後もドイツ軍が拉致し虐殺したとソ連から喧伝された数千人とも2万人とも噂されたポーランド将校・兵士達が実はソ連軍の蛮行であることは事実として検証された。銃殺された将校たちの中にワイダ監督の父親も含まれていた。ナチスの蛮行に対照されるソ連の悪業をワイダ監督は小国ポーランドの悲劇として映像化した。その物語の苛酷と痛烈に黙考せざるをえない。それは前回のブログで引用したフランスのユダヤ人哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトが注釈・分析するハイデガーの「貧しさ」とタイトルされた講演記録に対するラクー=ラバルトの論説「ドイツ精神史におけるマルクス―ヘルダーリンとマルクス―」という論考や米国人社会学者パトリシア・スタインホフの「あさま山荘連合赤軍事件」や岡本公三らによる日本赤軍派テルアビブ乱射民間人殺傷事件の分析論考ともアカショウビンの中で響き合う。

 ハイデガーというドイツの哲学教師・哲学者は先の大戦の戦前・戦中・戦後の時空間の中で独特の光芒を放っている。それはアカショウビンにとって20年近く前にラクー=ラバルトの『政治という虚構』(1992年 藤原書店)という著作を読んだ事に起因する。それはその前に断続的に読み継いでいた『存在と時間』という書物を理解するうえでの水先案内ともなった。もちろん、この未完の著作を十全に理解している筈もないことは断って言うことである。アカショウビンの現在に到るまでのハイデガー読解の過程で縁あったフランス国籍のユダヤ人哲学者のハイデガー理解が複雑を極めることはドイツは言うに及ばず日本はじめ異国のハイデガー読者たちに共通の前提であろう。東西ヨーロッパというキリスト教・ユダヤ教文化圏のうちでナチズムを生み出したドイツと地続きのフランス人たちにとってハイデガーという「20世紀最大の哲学者」とも称される人物の思索・思考・論考・著作が与える不可解・衝撃はサルトルはじめ、フーコー、デリダ、ファリアス、ラクー=ラバルトの著作・論考を読めば痛感する。

 ドイツに対抗するフランスのなかでハイデガーの著作・言説の紙背を読み取るラクー=ラバルトの立場に寄り添いつつ戦後の米国という国家の世界支配拡大の過程でハイデガー、マルクスという今や遠景に霞みつ去りつつあるような思索を重ねた人物たちの論考は刺激的でアカショウビンを挑発・刺激する。マルクスという避けて通れぬ人物が新たな光芒を放って登場する思いだ。

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