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2010年1月11日 (月)

犬に食われる存在

 先日読んだ藤原新也氏の「黄泉の犬」(文春文庫)に刺激されて「オウム真理教事件」やインドという国についてアレコレ考えている。同書のベースになっている思索の基調音は氏のホームページにも掲載されているガンジス河の中洲で犬に食われる人の死体の写真である。そこで氏は〝メメント・モリ(死を想え)〟という言葉を引用し、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と述べる。私たちは生を享楽するあまり死を忘れる。しかし親や近親、縁あった人の死に遭遇すると慌てふためき何事か考える。それは思い出の回想であり、死とはなにか、生とは何か、といったとりとめもない事柄であるだろう。人間が生き物達の中で何か特別な存在である、ということは妄想のようなことかもしれない。それを藤原氏はガンジス河のほとりで火葬にされる人間の姿やチベットの鳥葬や犬に食われる人の姿を視て熟知した。そしてご自分が若い頃に放浪し暫く棲みもしたインドという国で日本からやってきた若者たちの姿を介して宗教や人間という生き物、あるいは日本という国の姿を思索する。それはアカショウビンのように生活苦に喘ぎ日々を生きる者にとって実に刺激的で挑発的な文章だった。

 それは東京にしろ大阪にしろ地方都市にしろ或る意味で快適な環境のなかで暮す者たちにはまったく別な経験である。しかし、そこで人間の新たな姿を窺い知る。或る思索者は「都市世界は、破滅的な謬見に陥る危険に満ちている」と警告する。

 先日、仕事に行く途中、両膝に激痛が走り駅の階段を手すりに頼らないと歩けなくなった。駆け込んだ整骨医院の医師の見立ては、以前と異なった現在の仕事の負荷が原因だろうと言う。痛みはそんな軽い診断とは隔絶したものだった。レントゲンを撮り異常はありませんね、と静かに回答する冷静さに違和感をもった。それは医療の縄張りの範囲で下す診断というものであろう。しかし痛みは個々人で異なる。その原因は医者といえども、接することはできない領域だ。それはまた、生活の困苦にしても同様である。老いによる身体の不具合は中高年の誰もが経験することである。そこで「メメント・モリ」という言葉が脳裏に響き、怠惰な日常の危うさに警告を発する。

 アカショウビンの余生がどれだけあるか知らない。しかし、此の世に棲む日々を少しでも究め知りながらオサラバしたいものである。人間は犬に食われるくらいの存在であるにしても世に棲む日々の意味について人はアレコレ考える生き物である。昨年から今年にかけてアカショウビンも経済的困苦と母を失った喪失感の中で時に暗澹たる思いで日々を凌いでいる。世にはもっと厳しい状況に支配され苦しんでいる人も多いだろう。しかし困難と困窮は乗り越えたいものだ。それは此の世の豊饒さを経験する楽しみということでもあるだろう。死を忘れず、浮世を楽しむ。まぁ、それは達人の境地であろう。それは遥かなる境地といえども年の初めに、そこに到る幾らかの精進だけは続けたいな、と殊勝に思うのである。

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