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2010年1月30日 (土)

ドイツの宗教的土壌

 ラクー・ラバルトの「ドイツ精神史におけるマルクス」という論考からインタビュー記事に答えた言説を引用しておく。

  ― そう、宗教闘争の巨大な戦場というのは非常に複雑です。西方-東方教会の教会分離、宗教改革による西方(ローマ)教会内の内的分離について、じつは、私がとても高く評価している、炯眼な精神の持ち主、ジャン=ジョゼフ・グーの説明を聞く機会がありました。彼がいうには、第一に「わかりませんか、ヒトラーはカトリックなんですよ」と(たしかにその通りで、彼はオーストリア人でありカトリックでした)。第二に、「彼の大きなモデル、それはイエズス会だったのです」と。

 それに対する私の返答はこうでした。「でもナチズムだってやはり宗教改革の産物なのであり、マルクス主義だってそうなのです。ただし、ヒトラーもマルクスもそうとは知らずにいたのです。マルクス主義のほうは、マルクスのロシア的読解のせいで、ビザンチン起源の教会と同盟を結んだのです。そしてナチズムの方は、実のところ、ドイツのルター派によるほぼ全面的な統一のおかげで、本質的に勝利したのです」。

 ある意味では、これはヤーコプ・タウベスという今は死んだベルリンの哲学者がいったことですが、(彼がいったように)今でも次のようにいうことは可能でしょう。ドイツにおける三つの破局的な思想、それは、ヒトラー、ハイデガー、カール・シュミットという三人のカトリック教徒に代表された思想であると。たしかに今でもそういおうと思えばいえるでしょうけどね。

 しかしハイデガーは、実際は、カトリック教徒であるより、はるかにルター信奉者だったのです。彼はたしかにカトリック宗教の下で教育されました。カトリック神学の勉強もしました。しかし、じつは、神学を離れるや否や、教え始めるようになって以来、まるで偶然であるかのように、二〇世紀最大のプロテスタント神学者の一人ブルトマンと一緒だったのです。ハイデガーのカトリシズムは、(彼の個人史においては)とても遠くにあるものであって、いわばマルクスのユダヤ起源のようなものです。彼に刻印を残すようなものはありませんでした。

 ところで、ヨーロッパにおいては、事情は複雑です。(カトリシズム、プロテスタンティズム、ギリシア正教だけではなく)以下のようなユダヤ教[の歴史]もあるのです。西欧においてはカトリック教会の支配の末期、異端審問の末期、つまり、ポルトガルからスペインへ、スペインからイタリアへ、イタリアからフランスへとユダヤ人を連れ回す組織的な強制移送(ただし、何人かの君主や教皇は、ユダヤ人が彼らの銀行だったことから、庇護しつつということはありました)の終わりの時期に、ユダヤ人は、いたるところで駆り立てられ、南仏やボルドー(ここには大きなユダヤ社会がありました)、バスク地方、アルザスに逃れました。このようなユダヤ教[の歴史]があるのです。

 しかし、このユダヤ教においては、ユダヤの伝統の代表者たちのほとんどが、彼らの住みついた国の文化に統合されました。とくにドイツのユダヤ人について人々がいつもいうことですが、彼らはドイツ人以上にドイツ的です。ベンヤミン、あるいはアドルノ、ブーバーは誰よりもドイツ的です。[それとは対照的に]東欧においては、ユダヤ人は、やはり、とても閉ざされた社会のプロレタリアートであったし、多くの場合は農民でした。アルザス地方にもユダヤ人農民はいましたが、アルザスの場合は、同化もありました。

 (p161~163)

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2010年1月29日 (金)

大戦後という時空間

 先日、「カティンの森」というポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ監督の2007年制作作品を観てきた。戦時中も戦後もドイツ軍が拉致し虐殺したとソ連から喧伝された数千人とも2万人とも噂されたポーランド将校・兵士達が実はソ連軍の蛮行であることは事実として検証された。銃殺された将校たちの中にワイダ監督の父親も含まれていた。ナチスの蛮行に対照されるソ連の悪業をワイダ監督は小国ポーランドの悲劇として映像化した。その物語の苛酷と痛烈に黙考せざるをえない。それは前回のブログで引用したフランスのユダヤ人哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトが注釈・分析するハイデガーの「貧しさ」とタイトルされた講演記録に対するラクー=ラバルトの論説「ドイツ精神史におけるマルクス―ヘルダーリンとマルクス―」という論考や米国人社会学者パトリシア・スタインホフの「あさま山荘連合赤軍事件」や岡本公三らによる日本赤軍派テルアビブ乱射民間人殺傷事件の分析論考ともアカショウビンの中で響き合う。

 ハイデガーというドイツの哲学教師・哲学者は先の大戦の戦前・戦中・戦後の時空間の中で独特の光芒を放っている。それはアカショウビンにとって20年近く前にラクー=ラバルトの『政治という虚構』(1992年 藤原書店)という著作を読んだ事に起因する。それはその前に断続的に読み継いでいた『存在と時間』という書物を理解するうえでの水先案内ともなった。もちろん、この未完の著作を十全に理解している筈もないことは断って言うことである。アカショウビンの現在に到るまでのハイデガー読解の過程で縁あったフランス国籍のユダヤ人哲学者のハイデガー理解が複雑を極めることはドイツは言うに及ばず日本はじめ異国のハイデガー読者たちに共通の前提であろう。東西ヨーロッパというキリスト教・ユダヤ教文化圏のうちでナチズムを生み出したドイツと地続きのフランス人たちにとってハイデガーという「20世紀最大の哲学者」とも称される人物の思索・思考・論考・著作が与える不可解・衝撃はサルトルはじめ、フーコー、デリダ、ファリアス、ラクー=ラバルトの著作・論考を読めば痛感する。

 ドイツに対抗するフランスのなかでハイデガーの著作・言説の紙背を読み取るラクー=ラバルトの立場に寄り添いつつ戦後の米国という国家の世界支配拡大の過程でハイデガー、マルクスという今や遠景に霞みつ去りつつあるような思索を重ねた人物たちの論考は刺激的でアカショウビンを挑発・刺激する。マルクスという避けて通れぬ人物が新たな光芒を放って登場する思いだ。

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2010年1月23日 (土)

或る時代(続)

 若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(190分)の最後のクレジットから抜粋して年代史的に1970年代以降の歴史を振り返ってみる。

 1974年 8月30日 東アジア反日武装戦線 丸の内の三菱重工本社ビル爆破

 1975年 8月4日 日本赤軍 クアラルンプールの米大使館占拠 西川 純 戸平和夫 連合赤軍の坂東國男 赤軍派の松田 久 東アジア反日武装戦線の佐々木則夫ら5人を逮捕

 1976年 9月23日 日本赤軍 奥平純三 日高敏彦 ヨルダンで拘束 日高敏彦はその後 自殺

      10月13日 奥平純三 日高敏彦の遺体 日本へ強制送還 

 1977年 9月28日 日本赤軍 日航機ハイジャック ダッカで奥平純三 赤軍派の城崎 勉 東アジア反日武装戦線の浴田由紀子 大道寺あや子 獄中者組合の泉 水博 仁平 映ら6人を奪還

 1982年 6月16日 連合赤軍の永田洋子 坂口 弘に死刑判決

 1985年 5月20日 日本赤軍の岡本公三 捕虜交換で釈放 

 1997年 2月15日 日本赤軍の岡本公三 和光晴夫 戸平和夫 足立正夫 山本万里子 レバノンで拘束

 2000年 3月18日 岡本公三を除く日本赤軍の和光晴夫 戸平和夫 足立正夫 山本万里子 日本へ移送

      11月8日 日本赤軍の重信房子 大阪で拘束

 2001年 4月14日 重信房子 日本赤軍の解散を表明

 2002年 3月30日 元日本赤軍の檜森孝雄 イスラエルのパレスチナ住民に対する虐殺・占領に抗議しパレスチナの子供たちの解放を願い東京日比谷公園で焼身自殺

 若松監督やナレーターの原田芳雄のメッセージは幾つかのシーンの間に読み取れる。この作品は日本という現在の金満国家がそこに到る過程で去っていった人々たちへのオマージュであることは言うまでもない。

 戦後の世界史のなかで、これらの事件を配置すれば様々な感慨と共にアカショウビンも自らの生を振り返り歴史と己の生の過程が走馬灯の如く脳裏を駆け巡る。

 戦後の学生運動が欧州や米国の学生運動とも呼応し世界史の中で明滅していたことは歴史を辿れば明らかだ。戦前から戦後、現在に到るまでの左翼運動や右翼思想との確執は次のような言説をも導き出す。

 ハイデガーは、マルクスがヘルダーリンという人物を知っていたということを、そしてヘルダーリンを読んでいたということを知っていただろうか。ハイデガーは、この日付において、たとえばマルクスの『初期著作集』に収められた論考のうちの何を読んでいた可能性があるのだろうか。何がハイデガーにとってヘルダーリンの「箴言」と響き合うものと映り、そして逆説のきわみだが、「精神的なもの」の指標とみなされたのか。マルクスをもっぱら糾弾するという以外の仕方では、ハイデガーがマルクスを名指すことができなかった時局において、したがってこの日付においてヘルダーリンを読むということは、より正確には、「精神たちのコミュニズム」のヘルダーリンを読むということは、たとえ「精神たちのコミュニズム」という題名を隠しておかねばならなかったとしても、当然のことながら、そこにマルクスを読み込むということを意味していたのである」(フィリップ・ラクー=ラバルト「『貧しさ』を読む」より)

 『貧しさ』(M・ハイデガー ph・ラクー=ラバルト 西山達也=訳・解題 藤原書店 2007年4月30日)は編者によると、1945年6月27日にハウゼンのヴィルデンシュタイン城の林務官舎においてごく限られた内輪の聴衆に向けて発表した講演の原稿である、と記している。ドイツ第三帝国が砲声と空襲の炎とともに没落した渦中での哲学者のメッセージにラクー=ラバルトは鋭くハイデガーの思考の行間と背景を読み込んでいく。

 『貧しさ』の題によるハイデガーの講演原稿はヘルダーリンの「箴言」への検討から始まっている。ヘルダーリンが1798年から1800年にかけてフランクフルトにほど近いホンブルクで友人シンクレールの邸宅に滞在していた時期の論考の一つをハイデガーは自らの思索・考察に引き寄せて恣意的に解釈している、というのがラクー=ラバルトの告発だ。ハイデガー研究者の晩年に書かれた何とも刺激的な論考である。副題にはジャック・デリダに捧ぐと付されている。デリダが亡くなる前に読んでもらうつもりだったとコメントされている。そのラクー=ラバルトも逝った。その後で彼らの論考に改めて接するのは現代を生きるアカショウビンの思索の楽しみであると同時に現在を生きるそれぞれの個や他者たちの生への挑発的な論説・論考でもある。

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2010年1月20日 (水)

或る時代

 先日から、友人が送ってくれたDVDで昔懐かしい映像や音楽を聴いて楽しむというより懐旧に浸っている。今朝はネットで先日亡くなった浅川マキの歌を聴いた。かつてネットを遊弋していて若い頃に聴いて惹かれた森田童子という歌い手の作品を久しぶりに聴いて感想を書いたら全共闘世代の女性から自分(彼女)にとっては童子はさほど心に響くことはなく、むしろ浅川マキの存在が若き頃の痛烈な歌い手でした、というコメントを頂いた。アカショウビンも童子を初めて聴いた頃に名前だけは覚えていた浅川マキという存在は伝説の歌姫のように伝えられていたように思い出した。早速都内のCDショップを探し中古レコードやCDは確認したが少し高価で購入をためらってしまった。

 ところが先日死去されてネット上の紹介で彼女の歌を聴くことができた。なるほど。ネットで聴けたのか。もっぱら好きな音楽家のCDは対価を払い所有し好きな時に繰り返し聴くというのがアカショウビンの習慣だったのを反省した。

 幾つかの曲を聴き、また他の或る縁で、その頃に起きた事件の書物を読んでいると、アカショウビンが経験した若い頃を少し上の世代で経験した別の視角から開かれる或る時代が浮かび上がってくるのだ。

 1970年3月31日の「よど号ハイジャック事件」、11月25日の三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地突入割腹「事件」、1972年2月の連合赤軍による「あさま山荘事件」、1972年5月31日に岡本公三ら日本赤軍派のテルアビブ空港での乱射殺傷事件など世間を驚愕させた事件・現象が世界を震撼とさせた。このような一連の日本人の姿を通じて日本社会と一連の事件を分析した米国人パトリシア・スタインホフの「死へのイデオロギー 日本赤軍派」(2003年・岩波現代文庫)という著作には40年近く前の或る時代が現在の世相やアカショウビンの現在と交錯して回想されるのだ。それは時に萎え衰える自らの精神に張りを与えなければならないという衝動も誘発する。 

 あの時代1950年代後半から1960年の安保闘争を経て1970代は首都を中心に日本という国家が沸騰していたようにアカショウビンは自らの経験を介して振り返るのである。それは米ソ冷戦時代から朝鮮戦争、ベトナム戦争とアジアに介入していく米国を中心に世界も沸騰していた。その時に時代と歴史が回想され振り返られる。「その時」、と言うのは、回想し振り返るアカショウビンや他者の現在を通じて介して、である事に留意しよう。それはノスタルジー(懐旧)でもあるが、回想し振り返る側の現在が問われることでもあるからだ。

 浅川マキを聴きながら、同時代の幾つかの震撼する事件の詳細を辿りながら、或る時代を回想すると云う行為は、そういうことでもある。

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2010年1月18日 (月)

新年の贈り物

 昨年来、大阪に転居し、それを気遣って都内在住の友人から、昨年から何度かアカショウビンの好きな音楽家や関心のある共通の話題のテレビ番組をDVDに録画したものを送って頂いている。ありがたいことに年が明けて幾つか届いた。ところが、実はアカショウビンのオーディオ装置に接続してある機械では再生ができない(笑)。パソコンでは見られるのだが音楽関連のDVDはやはりオーディオを通して観聴きしたい。そこで貧窮生活の中から格安の製品を急遽購入しやっと観られた。娑婆を生きる楽しみはカネ次第でもあるのである(笑)。

 そのDVDはアカショウビンが敬愛する小澤征爾氏が音楽監督を務めたウィーン国立歌劇場を案内する3部構成の番組である。今朝あいかわらずの早起きで昨夜は送られたDVDの中からPPM(ピーター・ポール&マリー)のシドニー・コンサートを楽しみながら床に就き今朝は小澤さんの番組を楽しんだというわけだ。

 先日のブログでも藤原新也さんの「黄泉の犬」(文春文庫)から引用させて頂いたけれども、テレビという機械というか装置が来日したチベット僧にとってマンダラの如きものという驚きは、こうしてDVDを観ているとナルホドそうかもしれないと思うのである。

 第1部では2005年11月に演奏されたベートーヴェンの「フィデリオ」の第2幕のガラコンサート(オペラを舞台で演技するのではなく、ソリストは普段の姿で、オーケストラは通常のオーケストラ・ピットでなく舞台で演奏する形式)である。そのあとは氏が2003年から始めたという子供達へのモーツァルトの最後のオペラを1時間に集約した「魔笛」を楽しむ子供達の姿だ。モーツァルトの天才は老若男女が楽しめる作品である。それを小澤さんはウィーンに残して今年、国立歌劇場の音楽監督を引退する。

 そのあとは「フィガロの結婚」を介してのオペラ入門篇という構成だ。それは実に楽しくも至福の映像と語りだ。先日はガンに罹患したことも公表され、闘病で今年は静養されるという。心から再起を期待したい。氏のお歳を経ても若い頃の才気と闊達な語りを楽しませて頂いたことは新年の眼と耳の功徳ともいうべき経験であった。心から小澤征爾という稀有の日本人指揮者と音楽家のご壮健を言祝ぎたい。

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或る友人の手紙

先日、引っ越しの段ボールを開梱すると亡くなった友人からの手紙が出てきた。懐かしくなり、友人を偲び書き留めておく。

2002年の5月、僕は雪舟展を観ることが出来た。この500年前の画家の作品は見事としかいいようがない。ここにその感想を書き記しておこう。

会場には雪舟が学んだ宋代の画家、夏珪(シャ・フゥイ)の作品も展示されていた。彼の水墨画には了庵桂悟の賛が記されている。正確ではないだろうが、画中には次の文字が見える。

火煙(異字)村帰渡

漁笛清幽

煙堤晩泊

展示されていた2巾は絶品だ。雪舟の「秋冬山水図」の渋みに「明るさ」が加わった趣とでもいえばよいだろうか。特に目録の95番は際立って見事だ。夏珪の一品は、渋み、滋味が底の深さを湛えている。正に神韻渺。その地の色は紙質によるものか、渋さと深みは画家の意図通りの狙いなのか?

雪舟は明で画かれたとされる作品より帰ってから画かれたとされるもののほうが良い。

夏珪の画風に倣い、あるいはそれを超えているとさえ僕には思われる。その中では、冬が僕の好みだ。岡本太郎が雪舟は「芸術家ではない」と主張していた。しかし絵描きが眼で視、知と五感で画布に、その像を定着させる芸を持つ者だとすると、雪舟はやはり芸術家だと言うべきだろう。

岡本が嫌うのは、おそらく、その構図における「安定感」といったものなのだろう。或る場合、美は破調にあると言う人もあるのだから。

 アカショウビン君、僕は、ここ新潟の中権寺という地区にある道路沿いの小さな店で昼定食を食べて、この君への手紙を書いているのだけれども、これがなかなか、おいしいのだ。窓からは緑青色に苔むしたような角度の深い屋根をもつ寺が見える。

 客は女性グループが多いことからも人気のある店と思われ、僕は仕事でここへ来た時は出来るだけ立ち寄ることにしている。師走のどさ回りの最中に、ここで供される食事は、僕には女房の手料理のように心温まる家庭料理風で嬉しいのだ。

 女達の華やかな笑い声とさんざめきも僕を落ち着かせる。

 君が、僕がこの世からいなくなった後に、この店を訪れることがあったら、寺が見える、この席に座って、しばし僕の事を思い出してくれ給え。

 きょうのメニューは昆布を細かく切った炒めものをオカズに、細麺のうどん、胡瓜の三杯酢、それにシバ漬、味噌汁だ。レンタカーで慌しく仕事先を駆けずり回る最中のこの空間と食事に僕は一息つく。

 そこで読む新聞や週刊誌には君の好きな将棋の羽生がカド番に追い込まれたという記事や、隣国の大統領選の結果や、拉致された人達が彼の国には戻らない覚悟を決めた、といった記事が掲載されている。

 うどんの薄味は関西の薄味と違って僕には物足らないが、オカズや量が僕には美味しく適量だから文句はない。

 お茶の銘柄はわからないが、高名な寺で出されたら、ありがたく頂けるような味わいがあって、これまた好もしいのだ。

 食事の最後は僕の習慣でお茶漬けになる。きょうは美味しいシバ漬を一緒に貴重な昼食を頂いたのだよ。この世で、あと何回食べられるかわからない貴重な食事を僕に供してくれた店と機会に感謝しよう。天の采配があるとすれば天にも感謝したい気分だ。

 食事が終わり、次の仕事に出るまで空いた時間を僕は再び新聞や週刊誌に目を落とす。すると、そこには今年亡くなったタレントや女優、俳優、プロ野球選手、政治家達の生前の元気な姿が載っている。54歳で亡くなった女優や58歳で亡くなったアナウンサーは、僕が若い頃に見聞きした人たちで、彼らの死は他人事ではない、と僕は感懐に耽るのだ。

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2010年1月15日 (金)

群島としての世界

 ハイチの震災のテレビや新聞報道で見る惨状は関西在住の現在のアカショウビンには阪神・淡路大震災の記憶と共に他人事ではないように関西人は見ていることと思う。そういう経験のないアカショウビンには地震の取るに足らない微かな体験を通じて想像するだけである。

 アカショウビンが若い頃に読み馴染んだ小田 実(以下、敬称は略させて頂く)の名を久しぶりに眼にしたのは阪神・淡路大震災の時であった。時代の寵児とでも言う勢いでベトナム反戦運動で名を轟かせた氏の言動は若いアカショウビンには刮目して読んだ言説であった。辛らつで痛烈な評者からは「泡の如きもの」と吐き捨てられても、未熟で好奇心の塊であった若者たちに氏の言動が鮮やかで勁い説得力を持って受け取られたことも事実ではなかろうか。少なくともアカショウビンはその一人だった。その氏が経験した震災を人災だと吠えた論説は往年のヒーローが甦った思いだった。氏は震災という天災を人災と読み替える。その思考に久しぶりでアカショウビンは共振したのである。氏の死で改めて記憶が甦ったことはこのブログでも書き留めたので繰り返さない。

 地球の裏側で起こった天災には人災の指摘もされていると推量する。人の災難と死は斯くも突然に襲来する。ハイチの被災者も阪神・淡路の被災者と同じであろう。

 そこでアカショウビンが少しく思索・愚考を挑発されたのは先日読んだ「アーキペラゴ 群島としての世界」(今福龍太・吉増剛造 岩波書店 2006年)である。そこには奄美群島から沖縄、さらにその西南の島々でのご両人の体験・経験を介して〝群島世界観〟が実に目くるめく様相で面白く展開されている。それはかつて島尾敏雄が琉球弧をヤポネシアと概念化した論考や吉本隆明の南島論、柳田國男、折口信夫の言説・論説、考察とも響き合いヤポネシア概念を更に魅力的に拡張した思考である。世界を群島と見る。面白いではないか。

 ハイチの現状に思いを馳せるには、たまたま読んだ同書で語り合う両氏の思考が面白く協奏して響きあった。昨年はイスラエルのガザ侵攻で、今年は地球の裏側の巨大地震で、と世界には安らぎが訪れ続くことがない。世に棲む日々は自らの経済的困窮と共に斯くの如しである。

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未明の妙音

 ここ数年というか10年近くだろうか、音楽に集中するときは未明から夜明け頃というのが習性のようになっている。加齢と老いに向かうと多くの諸翁、諸もそうであるかもしれないが早起きになる。午前4時か5時頃には自然に眼が覚めるのである。しかし若い頃も深夜放送を聴いて音楽の霊力とでもいう力に震撼させられたのは深夜から未明、夜明けの頃だったかもしれない。若い頃も馬齢を重ねても自らの非力と非才に落ち込む時は躁鬱病のように襲来する。年齢を問わず生きる力が萎え衰えていると無力感に支配される。何度か記したけれども、二十歳前後に聴いたシゲティというハンガリー生まれのヴァイオリニストの弾くバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」を聴いて心が震えた。一丁の楽器の音に揺さぶられ励起され、力が身体の奥から精神の奥底から漲ってきたことを今も忘れることはない。木彫りのバッハ、とアカショウビンはその音楽を了知した。その時にアカショウビンという存在は確かに音楽の力に救われたのである。ヨーゼフ・シゲティという存在はフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、エリー・ナイといった指揮者、ピアニストの録音と共にアカショウビンにとっては隔絶した孤高の音楽家なのである。

 眠られないままにレコードをプレーヤーに載せた。シゲティの奏でる1947年録音のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。ブルーノ・ワルターがニューヨーク・フィルで伴奏する。ワルターの曖昧さのない毅然とした伴奏とシゲティの音が何と奥深く霊妙な響きを奏でることか。カデンツァはシゲティの出世の機会を与えてくれた師とも言うべきヨアヒムのもの。かつて聴いたバッハが甦る思いだ。2楽章のラルゲットの何という深みか。精神に染み入っていく思いである。二人の名匠の貴重な録音に励起された。音楽の力とは熱狂や美しさと崇高さだけでなく勁草のようにしなやかで馥郁とした豊饒な力をも秘めている。久しぶりに浸る未明の妙音であった。                

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深夜の妙音再び

 昨夜、レンタルDVDで「夜叉」(1985年 降旗康男監督)を何年ぶりかで観直した。秀作だ。高倉 健(以下、敬称は略させて頂く)という俳優が風格と威厳を備えて中年を迎えた姿が留められている。若き田中裕子、いしだあゆみの熱演が可憐。それぞれの過去を背負った男と女の切なさが、若い頃からすると歳をとり格段と円熟していく高倉 健という俳優を軸に出演者たちの熱演、秀演で佳作に仕上げられているのがよくわかった。木村大作の詩情溢れるキャメラが素晴らしい。乙羽信子、奈良岡朋子、大滝秀治の名優たちが脇を固めている。若き壇 ふみ、ビートたけしの姿も見られる。

 ここで高倉 健という稀代の名優論も紡ぎたいが、それはいずれ。書いておきたいのは別のことである。

 DVDを観終わって床に就き、深夜目覚めるとラジオでダミアの「人の気も知らないで」が流れているではないか。あの暗い闇のなかから呻くように搾り出される声が懐かしい。アカショウビンが聴いた幾つかのシャンソンの中でピアフの幾つかの曲とダミアの「かもめ」は同等の声と重みを担ってかつて聴いた。その後はバルバラという彼女達の後輩の研ぎ澄まされた刃の如き声にも深い響きを聴いた。

 ダミアが同曲を世に出したのは1931年という。日本では7年後に淡谷のり子が歌ったらしい。アカショウビンは、この曲をリュシエンヌ・ボワイエでも聴いた。こちらのほうが曲想はともかくすっきりと聴ける。しかし味があるのはダミアである。繰り返し聴いたレコードは友人達に売り払った。しかし曲を耳にすれば聴いた頃の記憶と共に心が震え共振する。

 ダミアを聴いて眠りに入り再び目覚めると今度は独特のかん高い声で小林 旭が歌っているではないか。アカショウビンはムード歌謡と称されて日本歌謡界を牛耳った石原裕次郎より破天荒な高音を響かせる小林 旭の声を楽しむ者である。日本歌謡史に刻まれる昭和36年の「北帰行」を新たに録音し直したという曲は北海道・十勝地区での地震情報で途切れたのは残念。しかし昭和60年の「熱き心に」が久しぶりに聴けた。「北帰行」から24年、俳優・小林 旭はスクリーンよりも歌手として記憶に残り甦る。名作「北へ」(1977年)はカラオケでよく歌った。

 ダミアの声と曲は「夜叉」に登場する男や女たちの心を映すようで不思議な効果を醸しだした。海縁にへばりつくように連なる家々に雪の降りしきる敦賀の冬の情景を捉えたキャメラが素晴らしい。その裏では「北帰行」「北へ」といった歌に満ちている「北国」への思い入れの気分が響きあい実に深夜の妙音としてアカショウビンに到来した。

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2010年1月11日 (月)

犬に食われる存在

 先日読んだ藤原新也氏の「黄泉の犬」(文春文庫)に刺激されて「オウム真理教事件」やインドという国についてアレコレ考えている。同書のベースになっている思索の基調音は氏のホームページにも掲載されているガンジス河の中洲で犬に食われる人の死体の写真である。そこで氏は〝メメント・モリ(死を想え)〟という言葉を引用し、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と述べる。私たちは生を享楽するあまり死を忘れる。しかし親や近親、縁あった人の死に遭遇すると慌てふためき何事か考える。それは思い出の回想であり、死とはなにか、生とは何か、といったとりとめもない事柄であるだろう。人間が生き物達の中で何か特別な存在である、ということは妄想のようなことかもしれない。それを藤原氏はガンジス河のほとりで火葬にされる人間の姿やチベットの鳥葬や犬に食われる人の姿を視て熟知した。そしてご自分が若い頃に放浪し暫く棲みもしたインドという国で日本からやってきた若者たちの姿を介して宗教や人間という生き物、あるいは日本という国の姿を思索する。それはアカショウビンのように生活苦に喘ぎ日々を生きる者にとって実に刺激的で挑発的な文章だった。

 それは東京にしろ大阪にしろ地方都市にしろ或る意味で快適な環境のなかで暮す者たちにはまったく別な経験である。しかし、そこで人間の新たな姿を窺い知る。或る思索者は「都市世界は、破滅的な謬見に陥る危険に満ちている」と警告する。

 先日、仕事に行く途中、両膝に激痛が走り駅の階段を手すりに頼らないと歩けなくなった。駆け込んだ整骨医院の医師の見立ては、以前と異なった現在の仕事の負荷が原因だろうと言う。痛みはそんな軽い診断とは隔絶したものだった。レントゲンを撮り異常はありませんね、と静かに回答する冷静さに違和感をもった。それは医療の縄張りの範囲で下す診断というものであろう。しかし痛みは個々人で異なる。その原因は医者といえども、接することはできない領域だ。それはまた、生活の困苦にしても同様である。老いによる身体の不具合は中高年の誰もが経験することである。そこで「メメント・モリ」という言葉が脳裏に響き、怠惰な日常の危うさに警告を発する。

 アカショウビンの余生がどれだけあるか知らない。しかし、此の世に棲む日々を少しでも究め知りながらオサラバしたいものである。人間は犬に食われるくらいの存在であるにしても世に棲む日々の意味について人はアレコレ考える生き物である。昨年から今年にかけてアカショウビンも経済的困苦と母を失った喪失感の中で時に暗澹たる思いで日々を凌いでいる。世にはもっと厳しい状況に支配され苦しんでいる人も多いだろう。しかし困難と困窮は乗り越えたいものだ。それは此の世の豊饒さを経験する楽しみということでもあるだろう。死を忘れず、浮世を楽しむ。まぁ、それは達人の境地であろう。それは遥かなる境地といえども年の初めに、そこに到る幾らかの精進だけは続けたいな、と殊勝に思うのである。

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2010年1月 5日 (火)

孤高の噺家

NHKのラジオ深夜便でウィンナ・ワルツを聴いてテレビの電源を入れると柳家小三治師のドキュメンタリーを放映していた。正月の功徳である。寝て飲んでの不健康このうえない日常にも幸いは訪れる。

池袋演芸場で師の高座を聞いたのは数年前の夏だった。会社の後輩の女性が寄席へ行きたい、というのでアレコレ物色しアカショウビンの好きな小三治師でよいか、と訊ねたら、よいという。その日の前日だかに体調が悪いというので彼女はドタキャン。アカショウビン一人で会場を訪れた。アカショウビンが学生時代から聴き続けてきた噺家と出会ったのは偶然の機会とはいえありがたかった。

 その頃にテープに録って繰り返し聴いた「死神」を68歳の師が演じている。正月の功徳はここに極まる。正しく正月は冥土の旅の一里塚なのである。

 師に興味を持ったのは師がクラシック音楽のファンだということが縁だった。レコードを白い手袋でプレーヤーに載せ謹聴するという逸話も面白かった。最近のネット配信の音楽受容の若者たちからは想像できない姿であろう。しかしアカショウビンの貧しい生活のなかから割く金で買い求めたレコードを聴く行為は師の姿に強く共感したのであった。

 一昨年は師を撮ったドキュメンタリー映画も面白く観た。師も68歳という。リューマチを患うなかでの高座は苛酷である。先のブログで藤原新也氏の著書から引用したチベット僧が言うテレビはマンダラという指摘は面白いけれども映像がナマという現実と一線を画することは言うまでもない。とはいえ昨年は愛聴する米朝師のお元気な姿もテレビで観られた。今年は20代から聴き馴染んできた噺家の老いに至る姿を正月の深夜に観られ自らも老いの過程にあることを自覚する。テレビがマンダラと判ずるチベット僧の視角は興味深い。曼荼羅とは何か?と今年は考察してみようか。

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2010年1月 1日 (金)

2010年、年の初めに

 年の初めに聴くウィーン・フィルの「ニューイヤー コンサート」は楽しい。柔らかな弦楽器と絶妙のバランスを保った管楽器。一昨年は、それまで殆ど聴いたことのないジョルジュ・プレートルで聞き流したが昨年はバレンボイム。これまた指揮も本業のピアノもそれほど好きなわけでもない。しかし余技の指揮は前年からのイスラエルのガザ攻撃でアルゼンチン生まれのユダヤ人である彼がどのように指揮するか興味があった。新年のコメントはそれに言及した筈だ。そして昨年がハイドン・イヤーとメンデルスゾーン・イヤーでありメンデルスゾーンには失礼しハイドンを演奏すると語ったのが印象に残った。それに演奏も我らが小澤征爾の登場以来久しぶりに集中して観聴きした。まだ元気だった母の手料理も楽しみながら。「美しく青きドナウ」の音楽に合わせて踊る子供達の姿は彼の地の天使のようだった。子供たちの「無垢」というものがあるとすれば、それはそれを体現していた。

 今年は再びジョルジュ・プレートル。昼間から飲んだアルコールの酔いで一眠りし起きたら演奏の途中だった。ウィーン・フィルの響きは欧州という地域の全てが凝縮されているようにアカショウビンは聴く。まぁ、それは妄聴の如きものである。しかし或る歴史的な建物の中で富貴な音楽愛好家の人々の中とはいえ歴史を体現した場で奏でられる音の響きとハーモニーには格別な清濁併せ持った響きを聴き取る。それが幻覚の如きものだとしてもそれでよいではないか。

 昨年末にズービン・メータが演奏する同じウィーン・フィルの来日演奏を聴いた。ベートーヴェンの7番は久しぶりに心躍る演奏だった。何よりウィンナ・ワルツが好かった。団員たちの「我らの音楽」を演奏する自信と楽しさが溢れていた。

 今年のジョルジュ・プレートルは、あまり聴き馴染んでこなかった指揮者とはいえ伝統の演奏会で奏でられる彼の地の歴史の何事かには思いを馳せるのである。彼らもそうだろうがアカショウビンにも「美しく青きドナウ」という曲には特別の思いがある。「2001年 宇宙の旅」という映画で使われた映像とのコラボレーションに中学生か高校生だったアカショウビンは息を呑んだ。以来、年初のウィーン・フィルの演奏で聴く同曲は格別の思いで聴くのである。

 映像では老指揮者のもとで演奏する演奏会の光景が映し出されている。ドナウと会場のコラボは陳腐であるから昨年の「天使」たちの踊る姿を想い起こし補う。しかしアップになる演奏者たちと会場の人々の表情を見れば人間という生き物たちの現世での「幸せ」の時の姿を観る。何とも偏屈な印象で申し分けない。

 続いては「ラデツキー行進曲」である。この演奏者達と会場の混然一体となった時の貴重さは格別だ。音楽が熱狂でも退屈でもなく人間達の安らぎと宥和でもあることが理解されるからだ。

 今の楽しい時も過ぎて行く。映像が途切れればその時も去る。新たな時は自ら体験し出会い、時に逡巡し迎え、拒否し、乗り越えていくものである。それは「等しきもの」の「永遠回帰」ではないだろう。それは新たに経験される「生成」するものである。またも訳のわからない物言いで恐縮。昨年以来読み続けているハイデガーのニーチェ講義が突然脳裏を過ぎるのである。

 テレビ映像を観ているとダラダラと観続けそうなので映像はそのままに音だけ変える。昨年来聴き続けた第九のCDである。1963年に録音されたライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラ演奏。指揮はフランツ・コンヴィチュニー。渋く重厚だ。ドイツの響きというものだろう。大晦日には我らがN響をこのオーケストラの常任指揮者だったクルト・マズアが指揮棒を持たず腕の動きは柔和に、指先を小刻みに震わし、唇は何やら呪文を唱えているような姿で指揮していた。コンヴィチュニーの姿は見えないが音は何やら、マズアがかつて常任指揮者だった頃にFM放送で聴いたベートーヴェンの交響曲の「ドイツの響き」の如きように聴いて申し分ない。

 この楽聖の最後のシンフォニーは何度聴いても好い演奏にはこちらの精神と心が深く沈み浮かび上がり再び沈み浮かぶ想いに浸る。その理由はアカショウビンにとっては長くなり終わることがない類のものである。それは此の世を生きる何か切っ掛けというか契機のようなものである。まぁ、またも訳のわかならない物言いになり恐縮。

 昨年は母の介護と看取りと無職の困窮で過ぎた。まるで10年とも20年とも感じる時間を凝縮して経験・体験した思いだ。年が明けても別にそれが変わったわけではない。しかし人は日常に節目を作る加工を施す。戦後生まれのアカショウビンも戦争は体験していなくとも両親や近親の話を介して人間たちの生き方に新たな思いを馳せる。

 昨年は継続している書物の他に新たな本を読むことも少なかったが年末から読み続けている再発された文庫は興味深く読んでいる。「黄泉(よみ)の犬」(2009年12月10日・藤原新也著・文春文庫)。初出は1995年7月18日号「週刊プレイボーイ」誌。2006年10月、文藝春秋社から単行本で発売されている。初出とは「大幅に加筆改稿」されているようだ。

 しかし内容は刺激的で挑発される。あのオウム真理教「事件」に或る距離を取りながら言及した本となっている。幾つかの書き直しの跡は読み取れる。それはアカショウビンが生きた時間とも交錯する。それが興味深い。それは14年という歳月の経過のみに限らない。それは、その時間を共に生きた人々と、また死者たちへの係わりを含むものである。昨年の師走、たまたま連合赤軍に題材を選んだ若松孝二監督の作品を観た。そこでアカショウビンは高校時代に起きた事件の経過と結末に思いを新たにした。また同じ頃に起きた三島由紀夫の「事件」にも。それらは日本という国の象徴的な歴史事実として再来し考察を促すのである。

 藤原氏の著作も同様である。オウムの若者たち同世代の若者や氏が若き頃に放浪し暫し住んだインドの回想譚は刺激的で挑発的である。この行間にアカショウビンも共感、共振し違和をも感じ思索を促される。

 それは人という生き物の矮小と不気味と、そこから生ずる或る面白さである。何より書名が挑発的である。アカショウビンは著者のホームページで書名を「黄昏」と混同した。出版社は定かだが「たそがれ」という読みでは出てこない。正しくは「黄泉(よみ)」なのである。後日、書店で違いを知り文庫を買い求めた。年を跨ぎ読み続けている。異なる場で共に過ごした時は共有される。有(存在・現存在)とは斯くの如きものでもあるだろう。 

 氏にとってインド放浪・滞在時に視た光景はその後も間歇的に現在まで継続して明滅し現実に反映されている筈だ。ガンジスの中洲で犬に食われる人間の姿と犬たちに襲われそうになり対峙した文章は過去が甦るものとして記述される。それは何度か書き換えられ活字になりアカショウビンが眼にする物である。そこで氏の視線、文章、息遣いとでもいうものが交錯する。

 オウム真理教(オウム神仙の会)の頃の氏が撮った写真へのコメントにも挑発される。それは教団のその後の変貌の過程の一瞬を示して挑発的だ。その詳細は氏の文章に接しなければ伝えられない。その一部を引用してみよう。

 「(前の文は略させて頂く)何年か前に以前訪れたことのあるチベットの僧たちが日本にやってきてね。西武デパートの美術館のマンダラ展の催しに招待されたんだ。マンダラを描くためにね。彼らは生まれてはじめて文明世界に触れた。

 煩悩の地獄にうごめいていると思っている日本人は、彼らに会うたびに解脱とか悟りとかいったものがどのようなものであるか質問したらしい。ところがチベットの僧は〝あなたたちはもうそのようなものに煩(わずら)わされる必要はない〟と答えたんだ。あんなすばらしいマンダラを持っているではないかと。そのマンダラって何だと思う」

 「・・・わかりません」

 「テレビだよ。彼らはホテルに泊まった最初の日に、部屋にあるテレビを見てこれは何だと質問した。ルームボーイがテレビをつけてやると、食い入るように見つめてその場を動かなくなった。とくにCFとかが混ざり合う民放のチャンネルに興味を示したらしい。そしてやがて死者の書の枕経(まくらぎょう)のあたりをぶつぶつ唱えはじめたんだ。日本ではこういうものが一家に一台、いやひと部屋に一台はあると言うと驚いて、彼はこう言った。日本人はチベット人のように信仰深い人々だと。

 彼は皮肉ってこう言ったのではない。本気だったんだ。

 これはマンダラだと。(同書p164~p165) 

 たとえば彼ら(アカショウビン注:オウム真理教の若者たち)の行っていた修行にサマディというものがある。その言葉を聞いたときはじめは何のことかわからなかったが、それがインドの修行僧の口にする〝サマージ〟と同じ意味だと知ってすべてが氷解した。このサマージという言葉は日本語で言えば三昧(さんまい)とか定(じょう)に該当するものだと思われる、おおざっぱに言うと真我に入る状態を言う。ちなみに真我とはヒンドゥ語でプルシャ(光)と言い、彼らのつけていた例のバッジである。(同書p192)

 私たちが生きている時空は多様である。この仮想空間を介し他者の文字や映像とも行き交う。氏はそれを時に憂い抗言する。それはアカショウビンの現在とも交錯するのが面白いのだ。それは幻覚や妄想、妄言の如きものだとしても。新たな年が如何なるものに成るかは神や神々の知るところでしかない。しかしその時空をアカショウビンも共時的に現存する。それは新たな経験・体験として出会い遭遇し抵抗し乗り越えなければならぬものである。その辛苦と快楽と脅威と驚異を多少の心構えをして臨みたいと想う。

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