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2009年12月28日 (月)

困窮と窮迫

 今年はアカショウビンにとって実に目まぐるしく過ぎた一年だった。昨年末いらいの求職活動がままならず、母の病のことも気がかりで大阪へ転居を決意したのは2月のなかば頃だった。引っ越しのため本やCDを段ボールに詰め、処分するCDは友人、知人、業者に売り飛ばし引っ越しの費用に充てた。友人のN君には毎週部屋の整理を手伝って頂き恐縮した。

 4月18日を引っ越し日と決め当日は友人達に手伝ってもらい夜に17年間棲んだ埼玉のアパートを引き払った。初めて運転する2tトラックで外環から首都高を通り中央高速を通過し東京を後にした。

 しかし大阪で仕事が見つからず8月まで貯金を使い果たし借金で凌ぐ生活だった。このような困窮と窮迫は学生時代か18年間勤めた会社に就職するまでの時いらいだ。8月末にやっと職にありつき9月から仕事に就いたが8月半ば頃に自分でベッドから起き上がれなくなった母を昨年手術した病院に再入院させた。ところが9月に入り衰弱の一途でホスピス病棟に移した。昏睡状態のまま終に9月18日の午前9時、永眠した。

 以来、依然として困窮に喘ぐ毎日だ。金に苦労しなかった時期からすれば三度の食事が戴けるありがたさと夜に毛布にくるまり眠りに入る時のありがたさに改めて気付いたことは此の世を生きることの意味にも遭遇することだった。

 大阪では旧友たちとも再会、再々会し思い出話や現状を聞き一時的とはいえ困窮で沈む気持をかわす時を得た。

 此の世に棲む楽しみは食事と睡眠の他には音楽と読書である。毎年の習慣で第九のCDを聴く。先日のフルトヴェングラーに続き本日はシューリヒトを聴いた。快活な第九である。名人芸と言ってもよい演奏だ。好みはフルトヴェングラーに極まるが名人芸に心をまかせる快感は暫しの至福に浸る。

 非在というより未だ不在としか思えない母の喪失感は時に心を苛むけれども残された者は力を奮い起こし弱る心を跳ね除け、また困窮をも凌がねばならない。

 此の世を生きることは「等しきものの永遠回帰」と思索者が説くものと、どのように同じでどのように異なるのか?と、問うてみよう。人の世は或る循環とも考えられる。思索者は言う。「人間はすべての事物の上を踊って行く」。日常の生活にどっぷり漬かって活動し、真正な思考の王国や階段も知らずにいる人間、このような人間はこのような踊りとおしゃべりを必要としている。

 このように別の思索者が述べるときに世に棲む多くの人間の姿が活写され新たな思考を要求する。それが持続されるかどうか、そこが急所だ。生活の困窮の中でもがき喘ぎながらそのような文章を読むことは満たされた生活の中で読むより行間と紙背に参入することである。思索者はまた「世界は深い-そして、かつて昼が考えていたよりもずっと深い」と呟く。思索者を見守る鷲と蛇は思索者に次のように語る。

 「すべてが行き、すべてが帰る。存在の車輪は永遠に回る。すべてが死に、すべてが再び花開く。存在の歳月は永遠に過ぎる。すべてが壊れ、すべてが新たに結合される。存在の等しい家が永遠に建てられる。すべてが別れ、すべてが再会する。存在の輪は永遠に自分に忠実である。どの刹那にも存在は始まる。どのここの回りにもそこの球が回転する。中心はどこにもある。永遠の小道は曲がっている。-」。

 そして次の洞察をアカショウビンは此の世を生き棲むための支えの思考として反芻しよう。

 「将来何が生成するかは、正に決断に関わる事柄である。円環は無限なものの内のどこかで閉じられるのではなく、その切れ目のない繋がりを抗争の中心である瞬間の内に持っている。何が回帰するか-それが回帰するならば-それを決定するのは瞬間であり、瞬間において抵抗するものに衝突してくるものを克服する力である。永遠が瞬間の内に有るということ、そして、瞬間がはかない今ではなく、傍観者に対してたださっと飛び去る刹那でもなく、将来と過去との衝突だということ~」。

 

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