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2009年12月 6日 (日)

自同律の不快

 本日の毎日新聞の書評欄は埴谷雄高生誕100周年特集である。鹿島 茂氏と沼野充義氏が寄稿されている。鹿島氏は-オタク小説としてよみがえる『死霊』-の見出しで『死霊』をオタク小説として読み解き、サルトルの『自由への道』も引いて作品を分析する。埴谷の有名な「自同律の不快」は論理学のA=A、AはAである、という同一律の解釈とも共振する筈だ。ハイデガーは次のように述べている。

 ~「AはAである」と、もはやあっさりと片付けることなく、「AはAで有る」と、強調を付す場合である。われわれに何が聞こえてくるであろうか。この命題は、「有る」について、つまり、あらゆる有るものがどのように有るのか、について語っている。同一性の命題は、有るものの有について語っているのである。この命題が思考の法則と見なされるのは、それが有の法則で有るかぎりにおいてのみである。その有の法則が述べているのは、有るものとしてのいかなる有るものにも、同一性つまりおのれ自身との統一が属する、ということなのである。 同一性の命題がその基調から聞きとられるとき、この命題によって言い表されるのは、西洋的ーヨーロッパ的思考の総体がまさに思考してきた当のものにほかならない。すなわち、同一性にひそむ統一は、有るものの有の根本動向の一つを形づくる、ということなのである。(創文社 「ブレーメン講演とフライブルク講演」所収 思考の根本命題 第3講演 1957年 p141)

 一癖も二癖もある『死霊』の登場人物たちのうち三輪四兄弟の末っ子、与志が最終的に辿り付いた概念「虚体」を鹿島氏はヴァーチャル・リアリティと考える。沼野氏は-独房から宇宙へ突き抜けた「両極」の人-の見出し。氏は『死霊』とドストエフスキーの『悪霊』との関連性に注目する。また有名な「あっは、ぷふい」の異様な文体にも。「若いころ留学も洋行もできず、刑務所の中でカントに読み耽った彼の生み出した小説はやはり、日本のとても狭い環境の中で行われる思考実験であったのに、世界文学に類例のない境地を切り拓いてしまった」と書く。

  まったく作風の異なる同郷の島尾敏雄の作品との対比も面白そうだ。『死霊」を改めて読み返すゆとりと時間は少ないとはいえ、更に思索を継続するために読み返してみなければならないが何時のことになるやら。

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