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2009年11月 8日 (日)

悲劇と文学

先日、保田與重郎とハイデガーを引き合いに出したので久しぶりにハイデガーの思索について少し考えていこう。保田の文学観や歴史観と共鳴・反発・反響するものとしては保田に愛憎なかばした三島由紀夫の「美学」も関連してくる。戦後に戦前・戦中の著作について占領軍からも左翼からも執拗な攻撃を受けても自説を曲げなかった保田に、「保田さんは自殺するべきだった」と難詰した三島の生き様と死に様は自らの行為で反意を示した。

保田も若い頃に読んだであろうハイデガーはニーチェと対決する決意でニーチェ哲学の根本思想を把握するべく「等しいものの永遠回帰の教説」の理解へと踏み込む。以下は著作からの抜粋。

現実的な理解を獲得するためには、何が眼前にあるのかを知りつつ支配するということが前提条件になる。この際に再びまず問われなければならないのは、何をニーチェ自身が伝達したのか、そして何よりも伝達がどのようにおこなわれたのか、である。

最初の伝達は、1882年の「悦ばしき知識」の結びの最後の断篇にある。「最大の重し」という標題が付いている。この断篇にはさらに、「悲劇ガ始マル」という標題の付いた結論部分が付け加えられている。その内容が、翌年にそのままの形で「ツァラトゥストラはかく語りき」という作品の冒頭になっている。

この作品-全体として-は、等しいものの永遠回帰という思想の第二の伝達である。したがって「悦ばしき知識」の結びにおいて既に、これら両作品の内的関連が示唆されている。

その連関は決して直ぐには見て取れない。それゆえに我々は問う、ここで悲劇とは何を意味するか。ニーチェは悲劇的なものをどう理解しているか。

道徳的にではなく、「美観的に」である。しかしそれは、芸術についてのニーチェの意味と理解における「美観的」ということであり-形而上学ということ、すなわち、有るものそのもの全体に関係付けられているということである。悲劇的なものとは、有るものの極端な諸対立の共存や共属であり、最高の希望と最深の苦悩、幸福と不幸、創造と破壊が一体を成していることである。「西洋的思考におけるニーチェの形而上学的な根本の立場-等しいものの永遠回帰-」(創文社版p226)。

保田が人麻呂や芭蕉に読み取る「慟哭」は保田も親炙しただろうニーチェの言う「悲劇」とどのように照応するか検証すべきだろう。保田に愛憎なかばした三島も創作の過程で「悲劇」には常に心配りした筈だ。ネット空間では三島への愛憎を散見している。静かに老いた保田に比べ派手な発言と苛烈な死に方をした三島では対照的な生き方のように見えるが底で通じているようにも見える「思想」には決定的な異同があるとも思われる。保田の古代日本を探索するが如き著作を辿っていると、それを痛感するのだ。

 

11月25日に向けて左右両翼の議論も喧しくなるだろう。『憂国』や『英霊の聲』

など三島作品への違和と賛同も仮想空間で喋々されている。先日の毎日新聞の書籍広告には、元盾の会班長、本多 清氏の新著も出ていた。アカショウビンは三島の神格化は御免被るが、作品と「思想」については未だに触発される者である。

ハイデガーはニーチェの「美観」を通してニーチェ哲学に肉薄する。そこで三島の「美学」についても保田の美意識と共に再考、再々考していきたい。

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