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2009年11月19日 (木)

回るか巡るか

 以前、職場の同僚が回転寿司のことを回る寿司ではなく巡る寿司だと言い張ったことがあった。なるほど、回るより巡るのほうがあの光景には妥当かもしれないと感心した。確かに回転という語で示される現象は或る物体がくるくる回る現象を指すように思われる。「回転寿司」という名称自体が曖昧なのかもしれない。

 そのような事をアレコレ考えたのは、先日ふと中島みゆきの「時代」という歌が口をついて出てきて、あれ?あの歌詞は「回る」だったか「巡る」だったか不安になったからである。アカショウビンは「時代」を初めて聴いたとき、これはニーチェの説く永遠回帰を中島流に翻案したものではないかと愚考した。以来、中島みゆきという歌い手には一目置いてきた。それは誤解というか錯覚というものだろう。中島(以下、畏れ多いことだが敬称は略させて頂く)がニーチェを読んでいるのかどうか詳らかにしないが、まぁ、それはどうでもよい。

 「時代」は好い歌である。かつて中島はインタビューに答えて「私の曲は鍋、窯のようなもの」と語ったことがある。それは面白い、さすが中島みゆきだ、と感心した。あれは決してノスタルジーを表現した作品ではない。口をついて出てきたのは雨のなかで「労働」をしていた時である。そうか、これは労働歌なのだ、と得心した。労働歌とは憂さをはらし、日々の辛い単調な労働に歌で変化を加味しようとする人々の智慧のようなものではないだろうか。黒澤 明の「七人の侍」のラストシーンあたりで農民たちが田植えをしながら歌を歌う場面がある。あれは労働歌の一つの型だろうが「ソーラン節」などの民謡に歌われるのが労働歌なのであろう。中島が鍋、窯の如きものというのは、それとは異なる自作批評だろうが、アカショウビンには自らの労働の憂さをはらし歌で変化を与える効果をもたらした曲として「時代」を労働歌と解釈し腑に落ちたのである。まぁ、それも誤解で錯覚であろう。しかし、それでよいではないか。中島みゆきという同世代の歌手をもったアカショウビンは幸せである。困窮と窮迫に真綿で首を絞められるような気分に落ち込むときに、まるで観音か弥勒のように救いの手を差しのべる。或る歌手を菩薩と言った輩がいたがアカショウビンにとっては中島みゆきこそ菩薩である。鍋、窯の如きもの、と自らの作品を批評する我らが歌姫に畏れいる。先日は国家から褒美をもらったらしい。新聞で読んだコメントのはしゃぎようが中島らしい。それはそれでいいのだ。ファンは作品を享受し楽しめばよい。

 ところで「時代」の歌詞は「回る」であった。さきほどネットで確認した。若かりし歌姫の姿も拝顔した。昨今はテレビCMにもご出演されている。お歳を重ねられ、ますますお美しくなられて悦ばしい。しかし時代は果たして回るのであろうか?「時代」ではないが歴史は繰り返す、とも言われる。おそらく「時代」と「歴史」は関連する術語である。この断言についてアカショウビンは同意しない。歴史は常に生成するものとして人間に現れると愚考するからである。では「巡る」かと言うとそうでもないように思う。しかしニーチェの言う「等しきもの」と近似したものとして現れるようにも思う。その微妙な差異は熟考するに足る深淵が有るのではないか?

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コメント

こんにちは。

我が敬愛する歌姫中島みゆきさんのことを述べられていたので少しだけコメントを。

>先日は国家から褒美をもらったらしい。新聞で読んだコメントのはしゃぎようが中島らしい。それはそれでいいのだ。ファンは作品を享受し楽しめばよい。

仰るとおりと思います。
自らを「芸人」と称していたみゆきさんならではの処し方かと。

投稿: 卯山人 | 2009年11月23日 (月) 午後 03時54分

 卯山人さん

 コメントありがとうございます。中島みゆきの歌には時に絶句することがあります。何と言ったらいいのでしょうか、私たちが生きている事の深みに触れている、とでもいうような。我が歌姫の御壮健と御健闘を共に言祝ぎたいと思います。

投稿: アカショウビン | 2009年11月23日 (月) 午後 04時15分

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