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2009年10月 7日 (水)

永遠と時間性

 昨日のブログで急所となる部分は僧侶が提出する次の問いである。

  >しかし、そもそも死というものは、存在するのでしょうか。

  >哲学者のウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の中で、「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない/永遠が時間の連続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる/われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように」と言っています。

 ★この僧侶が依拠するウィトゲンシュタインの断片にはとりあえず、異論を提示することができるだろう。「永遠」を「時間の連続のことでなく、無時間性のことと解されるなら」という前提の箇所だ。その前提は我々が生活する世界で現実的ではない。現実に、「われわれの生には」終わりがあり、「われわれの視野には」限りがあるからだ。

 「永遠」は「時間」と関わってくる概念であるし、「無時間性」という概念にはさらに説明を要するだろう。「時間性」についてはハイデガーの主著も熟読玩味しなければならない。

 また僧侶の問いは熟慮すれば新たな視野を開く問いであるのかどうか、ということも検討しなければならないだろう。僧侶が述べるように、死は存在せず、存在するのは「生」だけなのではないか、という考えには、良く言えば楽天性を看取する。そこにはディルタイの「生の哲学」の影響も反映しているかもしれない。最近の研究では既存の理解とは異なり、ハイデガーが逆にもっと強い影響を受けていた、と報告されもするディルタイの思索に対する考察の幅とスタンスを加味しても、ハイデガーは、その「楽天性」を斥けるようにも思える。

 学問的にはウィトゲンシュタインとハイデガーの哲学を照らし合わせて考察すれば幾つかの論点は浮かび上がってくるだろうが、とりあえず宗教者の視点を介して「死」について再考する機会を得たことは感謝したい。

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