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2009年10月23日 (金)

里 国隆の「奄美の哭きうた」

 奄美の島唄(歌というより唄であり、或いは謡という表記がそぐわしいように思うのだが)についてはアカショウビンなりに少し説明らしきものをしておきたい。

 里 国隆という盲目の歌い手の『奄美の哭きうた』というCDアルバムを聴いたのは去年の夏だった。前回のブログでも書いたように元(以下、敬称は略させて頂く)ちとせや中 孝介の裏声の美声とは次元を異にする凄みに驚愕する。CD所収の第4曲までは里愛用の竪琴である。それが第5曲の「芦花部一番」から蛇皮線になる。これがアカショウビンが子供の頃に聴き馴染んだ島唄だ。「哭き」とは古代の挽歌に満ちる「慟哭」にも通じると思われる。

 これを聴けば酷な言い方になるようだが元や中の裏声の美声が如何に現代風に商業化された画一的で無味乾燥な声と音に変換されているかが良くわかる。第7曲の「イキュンナカナ」は奄美の代表的な島唄だ。それは古代では「相聞歌」とジャンル分けされるだろう恋の唄だ。里の声に応じる「返し」(女声)は栄 タダ。これも奄美で唄われはじめた頃からすれば洗練されているのだろうが、里の声には盲目の唄い手に引き継がれた音を通した「歴史」が染み込んでいるように聴こえるのは錯覚だろうか?奄美から沖縄まで南島を放浪して唄い続けた里の声にはアカショウビンの血にも流れる南島の民人の歓楽から怨念までが脈々と伝わっているように聴こえるのだ。これが錯覚であるのなら錯覚に溺れよう。以下は昨年の記事を少し修整し加筆した。

 里は1975年8月9日、杉並区のテイチク・スタジオにいた。第4曲までの竪琴をかき鳴らし歌う曲は伝統的な蛇皮線でないのに最初は違和感を覚えた。しかし、それによって唄は何やら奄美の島唄という先入観を超えて響く。その声は殆ど叫びであり、呻きであり、怒りである。歌とは血を吐くような叫びでもあることを里の声と歌に聴く。この録音にはヤマト(内地・本土)でも名高い沖縄の面子が参加している。「ちじん」という島太鼓を叩くのは照屋林助、六調には嘉手苅林昌が参加している。昭和のはじめに奄美の島々には「薬売り、ナベカマの修理、傘の張り替え、あめ売り、浅漬け売り、ヤギ肉売り、アイスキャンディー売り、ウズラ豆売り」の行商人がたくさんいた。(解説を書いている南海日日新聞記者、亀山昌道)。12歳の少年の頃、防虫剤(ナフタリン)売りで手製の竪琴をかき鳴らす老人のあとをついて歩き里は琴の作り方や弾き方を学んだ、と書いている。1972年、沖縄が日本に返還されたときに里は奄美にいたが、三線と竪琴を背負って沖縄に渡り、那覇・宜野湾・コザ・金武といった基地の街をひたすら歩いた、とも。

 1975年、8月14日午前2時前、東京・新宿コマ劇場で里は島唄の「くるだんど節」を絶叫した。(昨年のブログから再掲する)

 ハーレー 戦や負きて 勝ちゅんど思うたる 大東亜戦争や 日本の負きて

 ヨーハーレー  勝ちゅんど思うたる  大東亜戦争や 日本の負きて

 ハーレー負けたや当たり前 科学の戦に竹やり持っちょて 負けたんや当たり前

 アカショウビンの、その頃の日記を読み返すと、8月5日にアルバイト料の7500円の報酬を得ている。その金で映画館に通い『イルカの日』、『原爆の子』、『第五福竜丸』、『パットン戦車軍団』などを観ている。多分、池袋の文芸座だろう。8月14日は終日、何の本だか書いていないが読書で過ごしている。そのころ里はスタジオに籠り、この録音をしていたのだ。16日には台風5号の影響で夕方に激しい雨が降った。バングラディシュではラーマンが暗殺されている。夕方には今はない渋谷の「全線座」で『海底2万マイル』、『パリ・ニューヨーク大冒険』を観ている。そのころ読んでいたのはニーチェの『ツァアラトゥストラはかく語りき』、武田泰淳の『愛のかたち』、吉本隆明の「きみの影を救うために」という詩などだ。なかなか面白いものを読んでいるではないか(笑)。

 里は1963年、那覇の路傍で腰を下ろし愛用の竪琴をかき鳴らし歌い叫(それは、さけぶでなく、おらぶというように)んでいる。「おらぶ」とは万葉集で「天(あめ)仰ぎ叫びおらび地(つち)に伏し牙(き)噛み猛(たけ)びて~)」(第9巻)と表記されているように感情を全身で伝えようとするときの声だ。沖縄で里の姿を4~5歳のときに強烈な印象で覚えているという書き込みをネットで読んだ。孫の手を引いていたオバアは立ち止まる孫の手を引いてその場を去った、と。さもありなんと思った。放浪芸人は社会からそのように扱われている。正しくそれは河原乞食という存在なのだろう。しかしその芸は小沢昭一氏の言うように刃の如きものでもある。里のアルバムを聴いたネットの書き込みで里の声はブルースだと言った人がいた。ブルース。なるほど、それは米国で生き延び続けるアフリカを故郷に持つ人々の底辺の音楽と共通する諦観や怒りや苦しみとそれから逃れようとする複雑な感情の凝集があるのかもしれない。

  その里が竹中 労やマスコミに取り上げられ沖縄の歌い手達との縁もあったのだろう1975年の夏に東京の杉並のスタジオと新宿のコマ劇場でおらび続けた姿を想像する。それは盲目の唄者にとって晴れがましい思いもあっただろう。しかし沖縄や奄美の島々の路傍で道行く人々に蔑まれながらも彼らの、里からすれば格段に恵まれた日常に竪琴と声で楔を打ち込むように喉の奥から声をふり絞り、おらぶ行為は浮世の憂さと危うさをも伝えようとする意図があったのかもしれない。 

  里は奄美の名瀬で所帯も持ったらしい。子供はいたのだろうか。そこから少し離れた集落には田中一村が棲んでいた。一村は里と行き交ったことがあっただろうか。蝙蝠傘を杖にテクテク歩く一村が路傍でおらぶ里の姿をチラリと見据えながら擦れ違う光景を夢想する。それは娑婆世界の哀れと何やら面白くも可笑しさと人の世の縁の不可思議さにも思いを馳せらせる楽しい時をも生み出す。時は過ぎ、1985年6月22日、里は那覇市のライブハウス「ジァン・ジァン」に招かれ出演した。体調は悪かったがステージはこなし聴衆は熱狂したという。ところが二日後、知人の特別養護ホームで不調を訴え検査入院。容態は急変し五日後の27日逝去。享年66歳。親族の話では、やつれた感じはなく人生に満足したように安らかな死に顔だった、と亀山は記している。

 

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