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2009年10月28日 (水)

日々の労働

 4月に大阪に転居してから就職活動は継続しているが殆どが書類審査で落とされる。面接に漕ぎ着けても採用にならない。貯金は底をつき今や借金生活に苦しめられるていたらくだ。9月にやっと警備という仕事にありつけた。工事現場の安全管理と交通整理である。ところが毎日仕事があるわけではない。雨が降れば休み。9月は母の最期を看取るために病院に泊り込み、その後の葬儀で仕事をしたのは10日だけ。これでは月々の借金返済と家賃と食費は捻出できない。正に困窮の極みである。

 ところが仕事はあちらこちらの現場に行く。職人さんたちのような肉体労働をするわけではないから現場によっては非常に楽なこともある。施主さんが大手だと朝はラジオ体操から始まる。何十年ぶりだろうか。あの声とピアノに合わせて体を動かすのは。最初は人真似だったが、しかし身体は覚えているのである。録音された指示に従い身体を動かすと手足が自然に動き出す。それまでの不規則で怠惰な生活から一転して何と健康的な一日なことか。始業は早いところで午前7時か8時だから夜更かしもできず午前5時前には起床する。日給は安く保障もなく不安なこと甚だしいが身心には実によい。同僚には若者もいるが高齢者の方々が多い。アカショウビンは若造の部類である。しかし道路補修や建築現場の土木作業現場で職人さんからの扱いは酷いものである。現場によっては高齢者が息子や孫のような若者に怒鳴られる。それは哀れなものである。サラリーマン生活は気楽な稼業と歌われたことは、このような仕事の現場を経験すると満更嘘ではない。

 しかし労働とは本来そのようなものだった筈だ。農業にしろ天候との融和と闘いだ。近代人の労働はマルクスを持ち出すまでもなく変質し人間の在り方まで変えた。エアコンの効いた快適な職場にいれば、その変化と現実を実感することはない。そういう意味では現在のアカショウビンの労働環境は劣悪ではあるが労働を介した本来の人間の営みに思索を走らせる効果をもたらしている。

 保田與重郎は古代の日本人の生活を文明として世界に冠たる高度のものと讃した。それは侵略や暴力、戦とは隔絶した平和で穏やかなものと説く。近代への異議と疑義は何も保田だけではない。それはハイデガーにも共通する思想である。もちろんアカショウビンは、それを全て受け入れるわけではない。我々の生活は文明の利便の恩恵を受けて成り立っているからだ。しかし、そこで失われたものがある。それは保田にとっては天皇を中心として古代よりの稲作と農に起因する穏やかで高度な文明と文化であり、ハイデガーにとってはギリシアより近代哲学で失われた、有る(存在する)こととは何かということを忘却したヨーロッパ文明である。保田やハイデガーを読むことは、晦渋で難解と毀誉褒貶される思想と哲学だが、一語一文を辿ればそれに気付くことでもある。

 本日は現場が奈良であった。職人さんたちとトラックに相乗りし法隆寺の近くjまで行った。保田與重郎が賛嘆した大和の里の変貌は惨澹たるものだが、山々となだらか地形を見れば古代の風雅への思いも新たになる。高校生の頃いらい何十年かぶりで法隆寺はじめ奈良の寺々や保田ゆかりの長谷寺、大和國原(クンナカ)、桜井市も訪れてみようと思う。

 それはともかく、生き延びるために、もう少し安定して最低限の賃金が稼げる仕事に就きたいものだが現実は実に厳しい。しかしきついのはアカショウビンだけではない。本日は75歳の先輩が同行。その姿と仕事ぶりを見れば老いの苛酷は痛々しい。日本の労働の現場の或る現実を身を以て経験している現在はアレコレ考えることも多い。

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