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2009年10月28日 (水)

日々の労働

 4月に大阪に転居してから就職活動は継続しているが殆どが書類審査で落とされる。面接に漕ぎ着けても採用にならない。貯金は底をつき今や借金生活に苦しめられるていたらくだ。9月にやっと警備という仕事にありつけた。工事現場の安全管理と交通整理である。ところが毎日仕事があるわけではない。雨が降れば休み。9月は母の最期を看取るために病院に泊り込み、その後の葬儀で仕事をしたのは10日だけ。これでは月々の借金返済と家賃と食費は捻出できない。正に困窮の極みである。

 ところが仕事はあちらこちらの現場に行く。職人さんたちのような肉体労働をするわけではないから現場によっては非常に楽なこともある。施主さんが大手だと朝はラジオ体操から始まる。何十年ぶりだろうか。あの声とピアノに合わせて体を動かすのは。最初は人真似だったが、しかし身体は覚えているのである。録音された指示に従い身体を動かすと手足が自然に動き出す。それまでの不規則で怠惰な生活から一転して何と健康的な一日なことか。始業は早いところで午前7時か8時だから夜更かしもできず午前5時前には起床する。日給は安く保障もなく不安なこと甚だしいが身心には実によい。同僚には若者もいるが高齢者の方々が多い。アカショウビンは若造の部類である。しかし道路補修や建築現場の土木作業現場で職人さんからの扱いは酷いものである。現場によっては高齢者が息子や孫のような若者に怒鳴られる。それは哀れなものである。サラリーマン生活は気楽な稼業と歌われたことは、このような仕事の現場を経験すると満更嘘ではない。

 しかし労働とは本来そのようなものだった筈だ。農業にしろ天候との融和と闘いだ。近代人の労働はマルクスを持ち出すまでもなく変質し人間の在り方まで変えた。エアコンの効いた快適な職場にいれば、その変化と現実を実感することはない。そういう意味では現在のアカショウビンの労働環境は劣悪ではあるが労働を介した本来の人間の営みに思索を走らせる効果をもたらしている。

 保田與重郎は古代の日本人の生活を文明として世界に冠たる高度のものと讃した。それは侵略や暴力、戦とは隔絶した平和で穏やかなものと説く。近代への異議と疑義は何も保田だけではない。それはハイデガーにも共通する思想である。もちろんアカショウビンは、それを全て受け入れるわけではない。我々の生活は文明の利便の恩恵を受けて成り立っているからだ。しかし、そこで失われたものがある。それは保田にとっては天皇を中心として古代よりの稲作と農に起因する穏やかで高度な文明と文化であり、ハイデガーにとってはギリシアより近代哲学で失われた、有る(存在する)こととは何かということを忘却したヨーロッパ文明である。保田やハイデガーを読むことは、晦渋で難解と毀誉褒貶される思想と哲学だが、一語一文を辿ればそれに気付くことでもある。

 本日は現場が奈良であった。職人さんたちとトラックに相乗りし法隆寺の近くjまで行った。保田與重郎が賛嘆した大和の里の変貌は惨澹たるものだが、山々となだらか地形を見れば古代の風雅への思いも新たになる。高校生の頃いらい何十年かぶりで法隆寺はじめ奈良の寺々や保田ゆかりの長谷寺、大和國原(クンナカ)、桜井市も訪れてみようと思う。

 それはともかく、生き延びるために、もう少し安定して最低限の賃金が稼げる仕事に就きたいものだが現実は実に厳しい。しかしきついのはアカショウビンだけではない。本日は75歳の先輩が同行。その姿と仕事ぶりを見れば老いの苛酷は痛々しい。日本の労働の現場の或る現実を身を以て経験している現在はアレコレ考えることも多い。

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2009年10月23日 (金)

里 国隆の「奄美の哭きうた」

 奄美の島唄(歌というより唄であり、或いは謡という表記がそぐわしいように思うのだが)についてはアカショウビンなりに少し説明らしきものをしておきたい。

 里 国隆という盲目の歌い手の『奄美の哭きうた』というCDアルバムを聴いたのは去年の夏だった。前回のブログでも書いたように元(以下、敬称は略させて頂く)ちとせや中 孝介の裏声の美声とは次元を異にする凄みに驚愕する。CD所収の第4曲までは里愛用の竪琴である。それが第5曲の「芦花部一番」から蛇皮線になる。これがアカショウビンが子供の頃に聴き馴染んだ島唄だ。「哭き」とは古代の挽歌に満ちる「慟哭」にも通じると思われる。

 これを聴けば酷な言い方になるようだが元や中の裏声の美声が如何に現代風に商業化された画一的で無味乾燥な声と音に変換されているかが良くわかる。第7曲の「イキュンナカナ」は奄美の代表的な島唄だ。それは古代では「相聞歌」とジャンル分けされるだろう恋の唄だ。里の声に応じる「返し」(女声)は栄 タダ。これも奄美で唄われはじめた頃からすれば洗練されているのだろうが、里の声には盲目の唄い手に引き継がれた音を通した「歴史」が染み込んでいるように聴こえるのは錯覚だろうか?奄美から沖縄まで南島を放浪して唄い続けた里の声にはアカショウビンの血にも流れる南島の民人の歓楽から怨念までが脈々と伝わっているように聴こえるのだ。これが錯覚であるのなら錯覚に溺れよう。以下は昨年の記事を少し修整し加筆した。

 里は1975年8月9日、杉並区のテイチク・スタジオにいた。第4曲までの竪琴をかき鳴らし歌う曲は伝統的な蛇皮線でないのに最初は違和感を覚えた。しかし、それによって唄は何やら奄美の島唄という先入観を超えて響く。その声は殆ど叫びであり、呻きであり、怒りである。歌とは血を吐くような叫びでもあることを里の声と歌に聴く。この録音にはヤマト(内地・本土)でも名高い沖縄の面子が参加している。「ちじん」という島太鼓を叩くのは照屋林助、六調には嘉手苅林昌が参加している。昭和のはじめに奄美の島々には「薬売り、ナベカマの修理、傘の張り替え、あめ売り、浅漬け売り、ヤギ肉売り、アイスキャンディー売り、ウズラ豆売り」の行商人がたくさんいた。(解説を書いている南海日日新聞記者、亀山昌道)。12歳の少年の頃、防虫剤(ナフタリン)売りで手製の竪琴をかき鳴らす老人のあとをついて歩き里は琴の作り方や弾き方を学んだ、と書いている。1972年、沖縄が日本に返還されたときに里は奄美にいたが、三線と竪琴を背負って沖縄に渡り、那覇・宜野湾・コザ・金武といった基地の街をひたすら歩いた、とも。

 1975年、8月14日午前2時前、東京・新宿コマ劇場で里は島唄の「くるだんど節」を絶叫した。(昨年のブログから再掲する)

 ハーレー 戦や負きて 勝ちゅんど思うたる 大東亜戦争や 日本の負きて

 ヨーハーレー  勝ちゅんど思うたる  大東亜戦争や 日本の負きて

 ハーレー負けたや当たり前 科学の戦に竹やり持っちょて 負けたんや当たり前

 アカショウビンの、その頃の日記を読み返すと、8月5日にアルバイト料の7500円の報酬を得ている。その金で映画館に通い『イルカの日』、『原爆の子』、『第五福竜丸』、『パットン戦車軍団』などを観ている。多分、池袋の文芸座だろう。8月14日は終日、何の本だか書いていないが読書で過ごしている。そのころ里はスタジオに籠り、この録音をしていたのだ。16日には台風5号の影響で夕方に激しい雨が降った。バングラディシュではラーマンが暗殺されている。夕方には今はない渋谷の「全線座」で『海底2万マイル』、『パリ・ニューヨーク大冒険』を観ている。そのころ読んでいたのはニーチェの『ツァアラトゥストラはかく語りき』、武田泰淳の『愛のかたち』、吉本隆明の「きみの影を救うために」という詩などだ。なかなか面白いものを読んでいるではないか(笑)。

 里は1963年、那覇の路傍で腰を下ろし愛用の竪琴をかき鳴らし歌い叫(それは、さけぶでなく、おらぶというように)んでいる。「おらぶ」とは万葉集で「天(あめ)仰ぎ叫びおらび地(つち)に伏し牙(き)噛み猛(たけ)びて~)」(第9巻)と表記されているように感情を全身で伝えようとするときの声だ。沖縄で里の姿を4~5歳のときに強烈な印象で覚えているという書き込みをネットで読んだ。孫の手を引いていたオバアは立ち止まる孫の手を引いてその場を去った、と。さもありなんと思った。放浪芸人は社会からそのように扱われている。正しくそれは河原乞食という存在なのだろう。しかしその芸は小沢昭一氏の言うように刃の如きものでもある。里のアルバムを聴いたネットの書き込みで里の声はブルースだと言った人がいた。ブルース。なるほど、それは米国で生き延び続けるアフリカを故郷に持つ人々の底辺の音楽と共通する諦観や怒りや苦しみとそれから逃れようとする複雑な感情の凝集があるのかもしれない。

  その里が竹中 労やマスコミに取り上げられ沖縄の歌い手達との縁もあったのだろう1975年の夏に東京の杉並のスタジオと新宿のコマ劇場でおらび続けた姿を想像する。それは盲目の唄者にとって晴れがましい思いもあっただろう。しかし沖縄や奄美の島々の路傍で道行く人々に蔑まれながらも彼らの、里からすれば格段に恵まれた日常に竪琴と声で楔を打ち込むように喉の奥から声をふり絞り、おらぶ行為は浮世の憂さと危うさをも伝えようとする意図があったのかもしれない。 

  里は奄美の名瀬で所帯も持ったらしい。子供はいたのだろうか。そこから少し離れた集落には田中一村が棲んでいた。一村は里と行き交ったことがあっただろうか。蝙蝠傘を杖にテクテク歩く一村が路傍でおらぶ里の姿をチラリと見据えながら擦れ違う光景を夢想する。それは娑婆世界の哀れと何やら面白くも可笑しさと人の世の縁の不可思議さにも思いを馳せらせる楽しい時をも生み出す。時は過ぎ、1985年6月22日、里は那覇市のライブハウス「ジァン・ジァン」に招かれ出演した。体調は悪かったがステージはこなし聴衆は熱狂したという。ところが二日後、知人の特別養護ホームで不調を訴え検査入院。容態は急変し五日後の27日逝去。享年66歳。親族の話では、やつれた感じはなく人生に満足したように安らかな死に顔だった、と亀山は記している。

 

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2009年10月18日 (日)

奄美と沖縄のシマウタ(島歌)

 本土の方々は殆どご存知ないだろうが今年は琉球・奄美が薩摩に侵攻されて400年目の年なのである。それは最近、アカショウビンも時々お邪魔しているブログ「与論島クオリア」の喜山荘一さんの紹介で初めて知った。情けない奄美出身者である。その喜山さんが下記の企画を進行中である。関東在住の皆さんには一人でも多くご参加頂きたい企画だ。最近でこそ元(はじめ)ちとせ(以下、敬称は略させていただく)、中(あたり) 孝介の活躍のほかに有名タレントの麻薬問題で思わぬ関心が高まっている奄美だが奄美の古謡は元や中の美声より遥かに陰影に溢れた唄である。それは同じ琉球弧の中でも微妙に異なる。奄美や沖縄の蛇皮線や唄い手の響きと声は生でこそ本領が伝わる。奥深い奄美と沖縄の「シマウタ(島歌)」の違いが体験できるかもしれない。奄美、沖縄出身の方々はもとより、多くの音楽ファンに見て聴いてほしい企画だ。

 ネットサーフィンで遭遇した同ブログでの喜山さんの論説、論考には、いたく刺激・挑発されている。父の葬儀のあと17年間も帰省していない故郷不幸のアカショウビンには実に心身に響く記事が満載である。隠れたあるいは隠された歴史・近代史に瞠目する内容だ。多くの人に読んで頂きたいと思う。大阪に転居したアカショウビンは参加できないのが残念。企画の成功を心よりお祈りする。

 http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2009/10/post-e7c9.html

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2009年10月17日 (土)

京の秋

 以下は先日、ミクシイに書いた日記を少し加筆、修整した。

 先日、仕事がない日に京都へでかけた。この日記にご懇切なコメントを戴いている美術家の若生さんご推薦の河井寛次郎記念館を訪れるため。まだ関東に棲んでいたころ、たまたまNHKのラジオ深夜便を聞いていたらご遺族の方が氏の逸話を語っておられた。実に気骨のある磊落な人柄の未知の陶工に興味が湧いた。埼玉から大阪に引っ越す前に、若生さんから京都には寛次郎の記念館があるので、あちらへ行かれたらぜひ訪れるとよい、とご推奨のコメントを戴いていたのである。文庫本で「火の誓い」(講談社文芸文庫 1996年)、「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」(同文庫)の二冊も買い求めた。

 その日は大型台風18号の台風一過。ぬけるような青空というわけでもなかったが、京のまったりと深まる秋を味わった。鴨川の河川敷では軒を連ねる料亭が夏の涼みの施設を解体していて季節の移り変わりも実感した。各駅停車の電車から途中で快速急行に乗り換え、阪急京都線の「河原町」で下車。歩いて幾らもない京阪電車の「祇園四条」に乗り継ぎ、一つ目の「清水五条」で降りる。ぶらぶら歩いて10分くらいで記念館に到着する。実は先日、近くの会社で面接があり、ついでに訪れたのである。ところが月曜で休館。その会社は結局不採用だった(笑)。担当者との面接では少し脈があるかな、と思ったのが甘かった。

 それはともかく、その日は無事に午後3時前に入館できた。受付の女性の京言葉が何とも雅で耳に心地よい。館内は2階建ての純和風の間取りで休憩所もあり寛げる。花瓶など調度品は厳選されている風情で来館者への心配りがありがたい。ドイツ人のご夫婦も訪れていたが来場者は少なく、ゆっくり見て回れた。寛次郎の多くの作品を生み出した「登り窯」も拝見できた。季節によって入れ替えられているという展示品も思わず立ち止まされること暫し。1階の開け放たれた扉と大きな窓からは中庭が見渡せる。そこにさわやかな秋の風。何とも、まったりとした時間だ。実に貴重な時をすごせた。もっとゆっくりしたかったが近いうちに再訪する機会もあるだろう。帰りは鴨川の河川敷を阪急「河原町」駅まで鴨や白鷺の姿を眺めながらゆっくり歩いた。実に雅な古都の秋の午後だった。

 記念館は住宅街の一角にひっそりと残されている。「火の誓い」の巻末には寛次郎が自宅(記念館)に住まわせ共に作品を制作した英国人の陶芸家ドナルド・リーチや韓国人の孫 昌さんらの逸話を愛嬢の河井須也子さんが「人と作品 点描記」という題で紹介している。実に心温まる文章である。

 河井寛次郎は明治23年、島根県の安来町(現・安来市)生まれ。東京高等工業学校(現・東京工大)で学び、京都市立陶磁器試験所に入所、研究制作に励んだ。
 31歳の時に東京高島屋で開かれた第1回創作陶磁展覧会に出品。「陶界の一角に突如慧星が出現した」と絶賛される。その後、柳 宗悦、浜田庄司らと民芸運動に参画。46歳の時には東京駒場に「日本民芸館」の開館にも尽力した。67歳でミラノ・トリエンナーレ展でグランプリを受賞。世界的な作家として名を轟かした。晩年は雑誌「民芸」に「六十年前の今」を59回に亘り連載執筆。昭和41年、76歳で没した。

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2009年10月11日 (日)

追悼

 ナチスのユダヤ人絶滅収容所アウシュビッツから奇跡的に生還した作者が収容所での生活を詳細に記述した「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル著)の翻訳者である霜山徳爾さんが7日、亡くなられた。90歳というから大往生のことと思う。最初に読んだのはだいぶ前のことだ。ところが昨年から今年にかけてネットの或る読書会で読む機会があり再読した。それほど内容が熱く議論されたわけでもないが、そういうことでもなければ読み直すことは、これから先にあったかどうか。

 この著作に導いたのは「夜と霧」(1955年)というアラン・レネの映画だった。うぶな高校生に、この映像は強烈だった。渋谷の映画館を出たときの街の喧騒が不思議な光景に見えた。映像と現実の落差に愕然とした。原作を読んだのはそれからかなり時間が経っていた。アカショウビンは映画を観て原作を読むことをできる限りしない。映画は映画、原作の著作は著作、と割り切ることにしているからだ。その原則をこの作品に関しては破った。精神科医の冷静で抑制された文体で驚愕する歴史事実を文章から想像するのは限界がある。様々な文献や資料、映像も併せ読み見なければ、あの歴史事実を受容し理解し了解することはできないだろう。「ショアー」(1985年 クロード・ランズマン監督)という作品はレネとは異なる手法であの歴史事実に迫っている。それはまた論じる機会があるだろう。

 映画のほうはDVDにもなっているけれども観直していない。あの驚愕は強烈で痛烈で、それはアカショウビンの記憶のなかで、数奇で稀少な体験として心と脳裏の奥に秘めておき、それが時に現在の自分を挑発、触発させるようにしようと考えているからだ。自らが経験していない歴史事実を受容するのは人それぞれだろうが、そこには応分の配慮が必要と思われる。

 ドイツの近代史は「ソフィーの選択」(1979年 ウィリアム・スタイロン著)という原作を映画化した映画作品「ソフィーの選択」(1982年 アラン・J・パクラ監督)にも痛烈に視覚化されている。原作は未読だが映画はDVDで何度か観ている。

 メリル・ストリープ演ずるソフィーはアメリカへ移民として渡ってきたアウシュビッツで生き残ったポーランド人女性。ところが彼女の父親が反ユダヤ主義者の大学教授のポーランド人という設定だ。その秘密をソフィーは恋人のケヴィン・クライン演ずる、ナチスへの憎しみに時に常軌を逸するユダヤ人のネイサンに隠し続けた。ソフィーの父親はナチスの知識人狩りに巻き込まれて反ユダヤ主義者でありながら逮捕され銃殺されたという事実も明かされる。その後ソフィーはアメリカに渡り恋人のネイサンやこの作品の原作者と出会い、父親はユダヤ人を擁護した大学教授だったためにナチスに殺されたと嘘をつき続けたのだった。

 映画ではソフィーが、絶滅収容所から、どのように生き延びてきたのかが、彼女が告白するように語りかけるなかで回想される。物語の進展のなかでネイサンが実は麻薬患者で、しかも精神分裂症を病んでいることも明らかにされる。そして二人の死で悲恋は終わる。そこには映画の前半で恋人達の出会いに重要な道具立てとなったエミリー・ディキンスンの詩が添えられる。

 ナチスによる、それは狂気としか見えない驚愕する歴史事実を前にして私達日本人は何が言えるのか、という一つの痛烈な問いをアカショウビンは、この作品や「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)からも突きつけられた。その最初の映像がアラン・レネ監督の「夜と霧」だったのである。

 ドイツの近代史を、映像を通じ、さらに書物や人々の語りで受け取る歴史事実は、単なる人間の狂気として片付けられるものなのか、というのが、それ以降アカショウビンの中に間欠泉のように吹き上がる問いである。それは、私自身とは関係のない、歴史の或る時期に起こった例外的な事実だったとすることはできないのではないか?ある状況と条件が揃えば、我々もまた、その陥穽に知らず落ち込むのではないか?、それは人間という生き物の中に組み込まれている性(さが)なのではないか?それは、いつの世にも人間という生き物の歴史に生じ得る可能性を持つ、たとえば仏教で説かれる業のようなものではないのか?これがアカショウビンが、「夜と霧」という著作と映画を通じて継続して抱き続ける問いだ。

 霜山氏の翻訳には2段組でp7からp73まで氏による詳細な解説が付いている。これが、あの歴史を理解するうえで貴重である。原著はドイツでは歴史資料として残るだろうが、異国でその事実を知るうえで氏の翻訳がなければ戦争を知らない戦後生まれの日本人に驚愕する歴史事実は伝わらなかった筈だ。その翻訳の労と氏の解説をアカショウビンは心から言祝ぎ追悼するのである。

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2009年10月 7日 (水)

永遠と時間性

 昨日のブログで急所となる部分は僧侶が提出する次の問いである。

  >しかし、そもそも死というものは、存在するのでしょうか。

  >哲学者のウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の中で、「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない/永遠が時間の連続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる/われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように」と言っています。

 ★この僧侶が依拠するウィトゲンシュタインの断片にはとりあえず、異論を提示することができるだろう。「永遠」を「時間の連続のことでなく、無時間性のことと解されるなら」という前提の箇所だ。その前提は我々が生活する世界で現実的ではない。現実に、「われわれの生には」終わりがあり、「われわれの視野には」限りがあるからだ。

 「永遠」は「時間」と関わってくる概念であるし、「無時間性」という概念にはさらに説明を要するだろう。「時間性」についてはハイデガーの主著も熟読玩味しなければならない。

 また僧侶の問いは熟慮すれば新たな視野を開く問いであるのかどうか、ということも検討しなければならないだろう。僧侶が述べるように、死は存在せず、存在するのは「生」だけなのではないか、という考えには、良く言えば楽天性を看取する。そこにはディルタイの「生の哲学」の影響も反映しているかもしれない。最近の研究では既存の理解とは異なり、ハイデガーが逆にもっと強い影響を受けていた、と報告されもするディルタイの思索に対する考察の幅とスタンスを加味しても、ハイデガーは、その「楽天性」を斥けるようにも思える。

 学問的にはウィトゲンシュタインとハイデガーの哲学を照らし合わせて考察すれば幾つかの論点は浮かび上がってくるだろうが、とりあえず宗教者の視点を介して「死」について再考する機会を得たことは感謝したい。

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2009年10月 6日 (火)

或る生死観

  大型台風が近づき、本日の仕事は中止。大阪の地では未だ雨風が激しくなっているわけでもないが、台風の接近でこれからだろう。それでは屋外の仕事は仕方がないかと思うものの、一日の稼ぎがなくなるのは辛い。もう10月なのだ。古代・中世に十月は神無月と称され、神様たちが出雲にお出かけになり神様不在の月なのである。神様はともかく、母の死を自分の心のうちに納め了解するのには時間を必要とする。ネットを散見していると次のような論考に遭遇した。現在のアカショウビンの心境には実に刺激的なので無断で転載させて戴くことを赦されたい。

 >僕は、そのとき自分の関心から抜けられないから、あなたは死についてどう思うかって馬鹿な質問をしたわけです。彼はパレスチナ人だから、何かあるのではないか、と思って。しかし、彼は、自分は宗教、一切の神秘主義を否定する、自分にとって死というのは、残った家族をどうするかという問題である、と言った。なぜならば、自分はイスラエル左翼のヒットリストに載っているからだ、と。そのとき、僕は目が覚めたような気がしましたね。ああ、そうだった、と。僕の妄想は単なるナルシシズムにすぎない、と思った。

 >浄土真宗では、「死ぬ」と言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いずれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。

 しかし、そもそも死というものは、存在するのでしょうか。

 哲学者のウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の中で、「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない/永遠が時間の連続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる/われわれの生には終わりがない。われわれの視野に限りがないように」と言っています。

 死が人生の中でのできごとではないことは、お分かりいただけると思います。時間の持続という観点を排するなら、現在生きていることは、永遠の事柄です。さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている、逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。この考えかたはすくなくともわたしにはぴったりきます。実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。 

 ★最初の節は現在もご活躍中の或る文芸批評家のもの。後は浄土真宗の僧侶が信者の質問に回答したものである。ここでは誰が書いたものかというより、こういう問いと回答を更に追求し考察する欲求に駆られる。前者のナルシシズムの内容を話者が明かしているのかどうか不詳であるけれども、それは直感とも啓示とも見做せる体験であるように思われる。しかし、死に対する考察と思索がナルシシズムとして了解されるものとも思えない。

 また僧侶が引くウィトゲンシュタインの「死は人生の出来事ではない」という断定も鵜呑みにはできないところだ。出来事とは存在論の用語でもあり、それを意識した思考だと思えるからだ。同様に「現在生きていることは、永遠の事柄」という「事柄」の定義する内容も明らかにしなければならないだろう。

 >さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている

 ★それは果たしてそうなのだろうか?という疑問も湧く。「すべて」のものは視覚だけで網羅できるのであろうか?

 >逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。

 ★上の考えはドイツ・フランスを中心に展開された現象学的理解というものであろうが、それで、私たちの「生」や「存在」が解き明かされているとも思われない。

 >この考えはすくなくもとわたしにはぴったりきます。実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。

 ★僧侶の理解はともかく、「生」しか存在しないのではないか?という解釈は、一つの考えとして理解できても、それを全面的に承服するわけにはいかない。そこには、死は存在するのではないか、という逆の問いかけが根強く反照するように思われるからだ。 

 

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